
第二章 「ソ連通信記者のライカ」
第八話 1949年ポルシェ356 デビュー
黒い、巻き戻しネジのひしゃげたライカは、ロシア人ボリスの手の中にあった。
ボリスは、モスクワ大学の2回生でジャーナリズムを専攻していた1945年1月、志願兵としてソ連陸軍に入隊した。6人兄弟の末っ子としてスターリングラードに生まれ、新聞記者を目指してモスクワに上京してきた。そんな時、ヒトラーの独裁政治で急激に領土を拡大してきたドイツ第三帝国の様子を見ていて、危機感を感じた。ソ連も丁度、スターリンによる粛清の嵐が吹き荒れ、独裁政治に近い状況にあったが、そんな政治状況に不満を感じながらも、愛国心と帝国主義への反発から、軍隊入りを志願したのだ。
ドイツ軍が降伏した時、彼はベルリンを占拠したソ連軍の中にいた。戦争終結の夜、彼等は勝利の美酒に酔いしれた。ボリスは若い仲間の兵隊と賭けをしていた。いつドイツ軍が降伏するかだった。ボリスはその賭けに勝ち、仲間から金を巻き上げた。その中の一人が、現金の代わりに一台のカメラを差し出した。ドイツ兵の捕虜から巻き上げたものだと言う。みると、そのカメラは傷付いてはいるがライカだった。その男はカメラには興味が無いらしく、ライカがどれほど高価なカメラか、その価値を知らないようだった。ボリスはだまってライカを受け取った。ボリスも特にカメラが好きとか、写真が好きと言う事は無かったが、そのライカには何かしら引かれるものを感じたのだ。手に持つと、ライカはしっくりと手に馴染んだ。仲間達と、ソ連軍の勝利を祝って記念写真を撮った。
戦場からモスクワに戻ったボリスは、軍隊から除隊して大学に復学した。
ボリスは、ベルリンで手に入れたライカの中に入っていたフィルムを現像に出した。
そこには、瓦礫と化したベルリンの姿が写し出されていた。焼けただれ砲弾の傷痕が残るブランデンブルク門。廃虚と化した街並。そして、ベルリンに侵入してくるソ連軍戦車隊。戦車の砲撃で吹き飛ばされたドイツ軍陣地。砲撃で傷付いたドイツ兵の亡きがら。不安そうなまなざしを宙に泳がせる少年兵士の横顔。帝国議会の屋根に翻るソ連国旗。それらの写真には、強い説得力があった。時代を切り取るジャーナリズムを感じた。
2年後、彼はモスクワ大学を可も無く不可も無い成績で卒業し、通信社に就職した。
新聞記者だと共産党からの厳しい制約を受けそうな気がして、もっと自由な立場で世界のニュースに接する事のできる通信社を選んだのだ。
ボリスは、黒い傷だらけのライカが気に入っていた。仕事の時はもちろん、彼女とのデートにも、いつもライカを持ち歩くようになっていた。沈胴式のレンズは、ボディの中にしまい込むとあまりかさ張らないし、50mmの標準レンズはスナップ写真を撮るのに重宝した。街中を歩いていて、少しでも気になるものを見つけるとシャッターを押した。いつの間にか、写真にも興味が湧いていた。良い写真を撮る為にはどうしたらいいか、真剣に考えるようになっていた。あくまでも本業は記事を書く事だったが、いつしか写真雑誌などで写真の撮り方などを研究している自分に気付き、おかしなものだと感じていた。
1946年、パリにFIA国際自動車連盟の本部が設立された。FIAは国際的なモータースポーツ競技を統括する団体で、戦前から行われてきた世界最高峰のグランプリレースを引き継ぐレースの再開を画作していた。そして発表されたのが、排気量の大きさによってF1、F2、F3の三つの規格で争う事を決めた、フォーミュラーの制定である。これにより、戦前のグランプリはフォーミュラー1で争われる事となった。
ボリスは三年程の下積みを経て、やがてスポーツとエンターテイメント担当の記者となり、ヨーロッパ各地を取材で飛び回るようになった。
1949年3月、スイスのジュネーブで行われたモーターショーを取材に行った時の事だった。ヒトラーの遺産とも言うべきフォルクスワーゲンの姿がそこにあった。フォルクスワーゲンは、既にヨーロッパで好評を博していた。約1000マルクというリーズナブルな価格、1131ccの排気量で25馬力を発生する空冷水平対抗4気筒の安定感あるエンジン。大人二人と子供三人が乗っても余裕のある室内空間。フォルクスワーゲンは1946年に1万台を突破し、1950年3月には累計生産台数10万台を突破する、まさに国民大衆車の地位を確立して行ったのだ。
ボリスはその会場で、素敵な一台のスポーツカーを見つけた。白色に光り輝くボディーは、美しい曲線に覆われており、フロントマスクはシンプルでどこか可愛い印象を受ける。 リアビューも丸みを帯びた流麗な曲線で構成され、とてもスタイリッシュだ。その車こそ、ポルシェの名を初めて冠した車であり、ポルシェ社がフォルクスワーゲンをベースに作り上げた最初のスポーツカー「ポルシェ356」のプロトタイプだった。
「356」は、フォルクスワーゲン・タイプ1のエンジンを高度にチューニングし、鋼管スペースフレーム・シャーシのミッドシップにレイアウトされていた。アルミで仕上げた軽量ボディはオープン2シーターで、空冷水平対抗4気筒エンジンは、OHV1131ccで40馬力/4200rpmを発揮し、トルクは6.5kg-m/3300rpmを発生した。356プロジェクトはジュネーブショーの2年前、1947年6月11日に、ポルシェ社が疎開したオーストリアの寒村、グミュント村で産声を挙げた。第二次世界大戦中、ドイツ軍の軍用車、キューベルワーゲンや水陸両用車シュビムワーゲン、また連合軍を苦しめた戦車、フェルディナンドなどを作り上げたフェルディナンド・ポルシェ博士は、戦争終結後の1945年6月、アメリカ軍によってヘッセンに連行され、尋問を受けた。その後、釈放されてオーストリアのグミュントに戻り農業用トラクターの設計などをしていたが、その秋またしても、今度は息子のフェリーや娘婿のピエヒ博士と共に、フランス占領地、バーデンバーデンに連行された。フェリーとピエヒはすぐに帰してもらえたが、ポルシェ博士は、ドイツ軍への協力のかどで逮捕され刑務所に送られた。二年弱拘束され、その間、フランスのルノー4CVの設計などを手伝わされ、1947年8月5日、やっと釈放されオーストリアに戻って来た。
ポルシェ博士が拘束されている間、息子のフェリーがポルシェ社を牽引していた。フェリーはポルシェ博士の片腕だったカール・ラーべらと共に、イタリアのピエロ・デュシオからフォーミュラーグランプリ用のマシンの設計を依頼され、4輪駆動ミッドシップの独創的なマシンを開発した。チシタリアF1と呼ばれたそのマシンの設計料等で百万フランにも上るポルシェ博士の保釈金が支払われた。その後、フェリーらは356の開発を進めてきた。

356の1号車(356.001)は、1948年に誕生した。その姿は、大戦が始まる直前に行われるはずだった、幻のベルリン-ローマ間レース用に博士とフェリーが作り上げたスポーツカーにそっくりだった。大戦が無ければ、スポーツカーメーカーとしてのポルシェ社の存在も、もっと早かったのかも知れない。そして、ポルシェの輝かしいレーシングヒストリーの第一歩は、この一号車から既にスタートしたのだ。
記念すべきポルシェの一号車を購入したのは、スイス人のヘルベルト・カース氏で、彼はオーストリアのインスブルックで開催されたレースに出場し、見事クラス優勝を収めている。
ソ連の捕虜収容所からドイツに戻ったミューラーも、1948年の暮れにはオーストリアのポルシェ設計事務所を尋ね、仕事に復帰し356の開発に携わっていた。奇しくも、ミューラーのライカを手に入れたボリスは、そんなミューラー達が作り上げた「ポルシェ356」に大変興味を持ち、その姿をライカに収めていたのだった。
ボリスは美しい356に惹かれ、あらゆる角度から写真を撮った。いつの日か、自分もこんな車を手に入れたいと願いつつ….
ボリスが十分すぎる程「356」の写真を撮り終えポルシェのブースを離れた直後、ミューラーが戻って来た。晴れの舞台に飾られた我が子を愛でるがごとく、ミューラーは356に見入っていた。まさか、ベルリン陥落の直後、捕虜になると同時に奪われた自分のライカを持った人物がすぐ直前まで同じ場所で写真をとっていたとは知らずに….
見れば、多分そのライカが自分の物であった事に気付いたであろうに、今となっては知る由も無い。運命は、すれ違ってしまったのだ。
ボリスもそんな事とは露知らず、他社のブースを精力的に見て回った。しかし、まぶたに焼き付いた「356」の美しさは、そう簡単に忘れる事が出来なかった。
帰り道で撮影済みフィルムを大至急現像に出し、ホテルに戻ったボリスは早速ジュネーブショーの記事を書かなくてはならなかった。
一番の話題は、やっぱり新興スポーツカーメーカー、ポルシェのデビューだった。VWをベースに作り上げた「ポルシェ356」のコンセプトカーから受けた強烈な印象をメインに、記事をまとめた。ポルシェのブースで手に入れた資料を見て、ボリスはフェルディナンド・ポルシェ博士に興味を抱いた。その輝かしい技術者としての略歴に加え、レースに対する思い入れや大衆車フォルクスワーゲンの開発など、ポルシェ博士の歩んで来た道は、独特の強い信念を感じる。今日見た「ポルシェ356」がどんな走りをするのか、またレースでどんな成績を残すのか、ボリスはいつの間にかポルシェのファンになっている自分に気がついた。

モスクワに戻ったボリスは、仕事に謀殺されていた。学生の頃から付き合い始めて、早6年が経とうとしている彼女のクラウディアとも、最近は忙しくて余り会っていない。昨年友人から手に入れたソ連製の車、モスクビッチ400も乗り回す時間が無く、バッテリーが上がって動かないままだった。
ポルシェ社はジュネーブショーの後、356のエンジンレイアウトをミッドシップからリアに移し、後席にも子供二人位が乗れるスペースを確保した。こうして”グミュント”356を完全に手作りで、クーペ43台、カブリオレはボディーをスイスのカロッツェリア、ボイトラーにて6台製作し、最初に作ったプロトタイプの2台と合わせて計51台を製作している。
1949年の年末には、疎開先のグミュントからドイツの古巣、シュツッツガルトに戻り、コーチビルダー、ロイター社の敷地の一部を借りて356の生産準備を開始する。そして1950年3月、やっとの事で連合軍に接収されていた敷地を返還してもらい、いよいよ356の本格的な生産が始まった。ジャーマン・ポルシェ356は、排気量をモータースポーツのクラス分けを意識して、1131ccから1086ccにスケールダウンし、量産体勢に入った。356はこの後、911にバトンタッチするまでの17年間に渡って製作され、スーパースポーツカーメーカーとしてのポルシェの礎を築いて行く。
1950年5月13日、イギリスのシルバーストーンサーキットにおいて、大戦後初のグランプリが開催された。F1世界選手権第一戦となったイギリスグランプリは、ジョージ6世国王陛下臨席の元、フェラーリ、マセラティ、タルボ、ERAなど21台のマシンが参加し、ジュゼッペ・ファリーナ駆るアルファロメオのティーポ(タイプ)158が優勝した。
この時のF1のレギュレーションは、自然吸気が4500ccまで、過給器付きが1500ccまでで、この年7つのグランプリが行われ、ファリーナが3勝、同じアルファのチームメイト、ファンジオが3勝で得点差によりファリーナが初代F1ワールドチャンピオンに輝いた。
アルファロメオは、参加しなかったインディアナポリス500を除いた6つのグランプリで全勝し、30年代初期の栄光を取り戻した。
ティーポ158は、戦前の1938年、エンツォ・フェラーリの発案により作られた車で、1946〜48年にかけて、イタリアを始めとした各地のレースで活躍した名車だ。エンジンは直列8気筒DOHC、1500ccでスーパーチャージャーを装備し、350PSの最高出力を誇っていた。
もちろんノーズ先端にはAlfa Romeo Milanoの紋章と、ドライバーサイドには三角の白地に四葉のクローバー、幸運を呼ぶクアドリフォリオ・ヴェルデが描かれていた。アルファロメオのエンブレムに描かれている少年を喰わえた大蛇と十字のマークはミラノ市の紋章で、12世紀以来ミラノを収めていたビスコンティ家の紋章に由来する。その昔、森の中に人を捕らえて食べる竜が住んでおり、ビスコンティ家の勇敢なウンベルトがその悪者の竜を退治したという伝説に基づいているという。それゆえ、アルファロメオのエンブレムは、ミラノの誇りと言っても過言では無い。ALFAはSocieta Anonima Lom-barda Fabbrica Automobili=ロンバルディア自動車製造株式会社の頭文字から来ており、Romeoは1915年頃、アルファの株の過半数を取得したニコラ・ロメオからきている。
クアドリフォリオ・ヴェルデは、アルファ車各クラスの最高級スポーツバージョンにのみ与えられる称号として、今でもアルフィエスタに愛され続けている。

1950年9月3日、シュツッツガルト郊外のソリチュート城ではポルシェ博士の75歳の誕生日を祝うパーティーが催された。城の中庭には、ヨーロッパ中から集まったポルシェ356とそのオーナー達が、ポルシェ・ファミリーとして楽しい時を過ごしていた。