第六話 1941年アウシュビッツ 

                  

 1941年に入ってもドイツ軍の進撃は留まる事を知らなかった。
 4月6日、ドイツ軍、ユーゴスラビアに侵入。続いてギリシアに侵入。
 6月22日には遂にソ連へ侵攻。バルバロッサ作戦を展開する。

 辺りがまだ真っ暗な午前4時、ミューラーはボック将軍率いる中央軍団の中にいた。
 今回、モスクワ攻略戦において、主力となる部隊だ。
 ドイツはいよいよソ連に侵攻する為、同盟国のハンガリー、ルーマニア、フィンランド軍と共に大部隊を編成し一大作戦に臨もうとしていた。


 世に言う「バルバロッサの戦い」である。
 1941年 6月22日、午前 4時15分、ドイツ軍は国境を越えてソ連に侵攻を開始した。ドイツ軍の総兵力は146個師団300万名、装甲戦闘車輌3580輌、輸送車輌60万輌、7180門の各種火砲、航空機1800機、馬75万頭という想像を絶する大部隊だ。


 ドイツ軍は三方からソ連に侵攻を開始した。バルト海諸国からレニングラードを目指すレープ将軍率いる北方軍団、白ロシアからモスクワを目指すボック将軍率いる中央軍団、ウクライナから黒海方面を目指すルントシュテット将軍率いる南方軍団である。スターリンは独ソ不可侵条約を信じ、国境守備隊の準備を整えていなかった。万が一ドイツ軍がやって来るにしても南部のウクライナ地方からだと考えていたが、実際の主戦場はモスクワへの途上の白ロシアだった。ドイツ装甲軍はヒトラーも驚く程の速さで進撃し、 7月には北方軍団はレニングラードを包囲、9月には中央軍団がスモレンスクを越え、10月には南方軍団はクリミア半島に達した。


 ドイツ軍は前進を一時休止して体勢を整えた。この次の作戦こそモスクワを攻略する最後の一突きとなるはずだった。


 1941年 9月30日、大攻勢の先頭を切ってグデーリアンの装甲部隊が前進。ミューラーが所属する、攻撃の主力である中央軍団の前進も10月 2日、予定通り始まった。「モスクワ包囲戦」の開始である。ドイツ軍はまたしてもソ連軍の不意を突き、各地区で戦線を突破した。ミューラーも前線に出て、敵の戦車や重火器などの写真を撮影した。ソ連軍兵士の志気は低く、反撃も組織化されておらず、経験豊富なドイツ軍の敵ではなかった。北方では第 3及び第 4装甲軍が南北からソ連軍を挟み撃ちし、ヴィアーズマ付近でソ連軍大部隊を包囲した。南部戦線では6日、重要拠点のブリヤンスクを占拠。ボック将軍の中央軍団もブリヤンスクでソ連軍を南北に分断、それぞれを包囲の環に閉じ込めた。わずか三ヶ月で、200万人以上のソ連人が、捕虜として捕らえられた。捕虜となったのはソ連軍兵士だけではなかった。ロシア共産党指導者やロシア系ユダヤ人等、一般市民も大勢が逮捕され、連行されていった。進軍するドイツ軍と入れ替わりに、前線から連行されるソ連人の捕虜の列は、えんえんと数十キロにも及んだ。ミューラーは捕虜の列にもライカを向けた。みな、怯えたような顔つきで満足な食事も与えられずに、やせこけ、やつれていた。目には光が無く、焦点の合って無いような目つきで、これから我が身に降り掛かる運命を案じ、絶望の淵にいた。彼等の多くはベルリン近郊にある、ザクセンハウゼンの捕虜収容所などに入れられ、強制労働を強いられた。突然大量の捕虜収容となった施設は、準備が整っておらず、環境は劣悪を極めた。狭い部屋に何十人もの捕虜達が無理矢理押し込められ、凍り付くような寒さを凌ぐ毛布も足りなければ、食料の調達も間に合わない為、捕虜達は次々と餓死していった。

 ドイツ軍は、各地の占領地から莫大な労働力と、馬、牛、食料、燃料、武器を作る原料などの物資を奪い取っていった。フランスとベルギーからは主に労働者を、デンマークから食料を、ルーマニアからは石油を、ポーランドからは小麦と石炭を。それらの多くは略奪、強奪によって集められ、輸送や製品の製造は強制労働によってまかなわれた。武器や弾薬の製造も、各国で行われた。
 それだけではない。この頃には戦費もかさみ、ドイツ一国で払えるような金額では無くなっていた。ヒトラーは占領した国々から、1200億マルクという大金を巻き上げ、戦争を遂行する為の資金に当てていた。

ソ連はモスクワ防衛線を強化したが、ドイツ装甲軍を阻止できる見込みは薄く、モスクワの運命は風前の灯となった。しかし、この年の冬の到来は例年に比べて早かった。そして、12月には140年ぶりという大寒波が両軍を襲った。ソ連軍は寒さに合わせた装備を有していたが、ドイツ軍にはそれが無かった。ドイツ軍兵士は次々と凍傷に倒れていった。また極寒の寒さは、機関銃や照準用テレスコープまで凍らせた。移動用の車両のエンジンもかかりにくくなり、食料や物資の輸送にも重大な被害をもたらした。12月に入ると、ソ連軍はモスクワの防御体勢を整えて、強力な反撃を開始した。ソ連軍要するT―34戦車の威力もドイツ軍には脅威だった。時速50kmという高速で、更に300kmという行動範囲を持つT―34には、ドイツ軍の主力戦車、パンツェルW型は全く歯が立たなかったのだ。こうして、徐々にドイツ軍は後退を余儀無くされた。ヒトラーは断固前線を死守せよとの命令を出したが、ドイツ軍の後退は止まらなかった。

12月6日、遂にドイツ軍は敗退する。
ヒトラーにとって一つ目の失敗がイギリスの制空権を取れなかった事とすると、このモスクワ戦敗退が二つ目の大きな挫折となり、この後の大きな転機となって行く。
 その二日後の12月8日、日本軍は真珠湾奇襲作戦を展開。太平洋戦争勃発により、戦争は全世界規模に拡大した。
 ドイツは12月11日、アメリカにも宣戦を布告した。

 1942年1月20日、ヒトラーはベルリンのバンゼーでユダヤ人の今後の処置を会議にかけている。そこで全ヨーロッパに住むユダヤ人の絶滅計画が決定された。
 それまでも強制収容所内では、首吊りによる見せしめの公開処刑や、銃殺による大量虐殺が行われていたのだが、ソ連からの大量捕虜の流入が見込まれるようになった為、収容所に空きスペースを作る必要に迫られていた。ナチス親衛隊SS長官であり、ゲシュタポ長官でもあったハインリヒ・ヒムラーは、その1年程前にナチス親衛隊首席警戒隊長ルドルフ・ヘスに命じて、もっと効率のいい大量虐殺の方法をあみ出すよう指示を出していた。ヘスはその1ヶ月後、研究の成果として毒ガスを使った虐殺方法を提案した。1942年9月、アウシュビッツ強制収容所にて、「チクロンB」という薬品を使った毒ガスによる殺人実験が初めて行われた。いよいよその大量殺戮方式が取り入れられる事になった。


 悪名高きアウシュビッツ強制収容所は、ワルシャワの南西257キロに位置する人口 12000人の小さな街、オシフィエンチムにある。収容所は人里から離れた、澱んだ池に囲まれた湿気の多い場所にあり、霧の多い泥炭地だった為、悪臭に満ちていた。

 1940年6月14日、ポーランドで逮捕された政治犯の728人がゲシュタポに連れてこられた。これがアウシュビッツに最初に入れられた囚人達だった。


 1941年にはオシフィエンチムから3キロ程離れたブジェジンカ村でアウシュビッツ2号の建設作業が始められ、42年には、近くのモノヴィッツェ村にアウシュビッツ3号が建設された。この他、これらの管理下に約40ものミニ収容所が作られている。
 アウシュビッツ1号の平均収容者数は13000〜16000人位で、1942年の一番多い時は、28000人程が詰め込まれていた。

 ロシア人捕虜を収容する為に作られたアウシュビッツ2号、ビルケナウ収容所は一度に20万人の収容を目指して作られた。収容所の周囲には、20キロに及ぶ運河が掘られ、回りを電気の流れる金属フェンスが覆っていた。収容所に連れてこられた人々は、強制労働が課せられた。初期の頃は、まず収容所の施設作りからやらされた。収容所を管理する指導者達の宿舎、これは贅沢な一戸建てのお屋敷が作られた。次にドイツ兵の住む宿舎、強制労働する為の工場や作業場、その他、SSの為の遊戯場や映画館、酒場なども作られている。

 最後に囚人用の宿舎が作られた。40年を過ぎた頃から、軍需工場や兵士の装備作りが多くなりはじめる。強制労働は一日およそ14時間、早朝6時から夜8時過ぎまで行われた。もちろん日曜も休日も無く、毎日働き詰めに働かされた。作業中は常にSSなどの管理兵士が厳重に見張っており、少しでも怠けると容赦無い制裁が待っていた。真面目に働いていても、見張りの兵士に意地悪や、謂れのない暴力を振るわれる事が毎日の日課として行われた。作業中いきなり帽子を剥ぎ取られて労働隊の回りに立っている歩哨の向こうに投げられ、取って来いと命令されて取りに行くと射殺されたりもした。理由は「逃亡未遂」。逃亡未遂を射殺したSSには、特別休暇や褒賞金が出たという。また規則違反や言い掛かりをつけられて懲罰刑を受ける事も日常茶飯事だった。懲罰に刑具が使われる事もあった。”木馬”と呼ばれた拷問台はどこの強制収容所でも良く知られた刑具の一つだった。椅子の様な形をした木製の刑具で、腹這いになって上に乗り、頭を下にし尻を高く上げた姿勢でベルトで固定され、鞭やこん棒で殴られた。


 およそ信じられないような不条理な蛮行がまかり通っていたのが強制収容所なのである。
ミューラーも一度、ソ連人捕虜をアウシュビッツに連行するのに同行し、強制収容所の中を見学した事があった。入り口の門の上には「働けば自由になれる!」という文字看板がかかげられていた。中に入ると、点呼広場に囚人全員が整列させられ、その前で見せしめの拷問が行われていた。収容所の所長は、拷問台の横にオペラ歌手の囚人を立たせ、アリアを歌わせながらむち打ち刑を執行した。ミューラーがその様子をライカに収めようとすると、SSの将校がそれを制した。捕虜に対する残虐行為の証拠となるような写真は、写すなという事だった。しかしミューラーは、ファインダーを覗かずに拷問の様子を撮影した。被写体までの距離は目算で合わせ、将校や看守の目を盗んでシャッターを押した。ライカはファインダーを覗かなくても、ちゃんとした写真が撮れるのだ。ミューラーは経験でライカの画角がどの位の広さか解っていた。この距離ならば、被写体はフレームに収まっているはずだ。回りで拷問を楽しんでいるSS達の姿も写っている事だろう。


 ミューラーは彼等の告発を考えていた訳では無かったが、収容所の真実の姿を写真に残しておくべきだと思った。広場の横にある集団絞首台、みすぼらしい囚人宿舎、食堂の様子など、ただ歩き回るような顔をして、シャッターを重ねた。うわさで聞いていた毒ガス棟を探したが、遂に発見する事は出来無かった。


 囚人宿舎から一番離れた所に、陰鬱な感じのするレンガ作りの焼却炉のような建物があったが、そこに近付く事は許されなかった。
 実はその建物こそ、毒ガス、チクロンBを使って大量虐殺が行われた現場だった。


 囚人達は衛生管理の為、シャワーを浴びさせると聞いてその建物の中に入っていった。全員裸になり、レンガ作りのその中に入ると、重い鉄の扉が閉められ数分後に天井から毒ガスが噴出された。その後そこでどのような地獄絵図が展開されたのか、ミューラーには知る由も無かった。人々は悶え苦しみ、壁や鉄の扉をなんとかこじ開けようと爪を立てたに違い無い。しかし、厚いレンガで覆われたその建物からは、人々の悲鳴ももれてこなかった。


 終戦までの間に、アウシュビッツでは350万人から450万人もの人が殺された。
 ドイツ軍は死体から金歯を抜き取り、髪の毛を刈り、肌を剥いだ。脂肪から石鹸を作り、骨から肥料を作り、髪の毛から毛布やスリッパを作り、肌を使ってランプシェードを作ったという。

 また、各地の大規模な強制収容所ではドイツ軍の医師により各種の人体実験も行われた。毒ガス製造の為の実験やX線を使った生殖不能化実験、細菌兵器の開発や天然痘、チフスといった伝染病の研究、ドイツ製薬企業の新薬開発の為のテストなど、あらゆる人体実験に強制収容所の生身の囚人が利用された。彼等は健康な体に無理矢理ウイルスを注射されたり、意味も無く手術で腕を切り落とされたり、内臓を取り出されたりした。


 アウシュビッツには多くの子供達もいた。ミックやパトリシアと同じ年格好の子供達も大勢いた。ミューラーは、子を持つ父親の目で彼等を見つめた。しかし、収容所の監督官や所長、囚人を管理をするSS隊員達はそう言う目では子供達を見ていなかった。
 いたいけな子供だからといって、虐殺が免除される事は無かったのだ。

 人間を人間とも思わぬ行為、いや、人智の限りを尽くした虐待や虐殺。それらは、最初はヒトラーという一人の狂気から始まったことだが、今となっては、何千・何万という一般ドイツ人の行為として、事実行われていたのだった。


 ミューラーも軍隊に入隊してから、数多くの人間の死を見て来た。それは仲間の兵隊の死であったり、捕虜の死であったり、一般市民やユダヤ人の死であったりした。戦争でもなければ、こんなに沢山の人の死を見る事は無かったであろう。しかし、悲しい事にミューラーはその時代に生きてしまったのだ。ミューラーは自分の運命を恨みつつも、これらの事実を何かの形で残さねばと思ったのだ。真(まこと)を写す。真実を写し取る事こそ、彼は自分の使命と感じるようになっていった。ライカはそんなミューラーの目であり、フィルムは記憶を残す為のメモリーとなったのだ。

 ミューラーはその後、白ロシアの前線に戻された。
 1942年に入って、ドイツ軍は各地でソ連軍の激しい抵抗にあい、後退が続いていた。
1943年1月31日、スターリングラードで激戦を演じていたパウルス大将率いる第6軍が降伏した。91000人の兵士が捕虜としてソ連軍に捕まった。昨年11月以来、既に32個師団が壊滅に追い込まれていた。


 モスクワ攻略に失敗した中央軍団は、少し後退しモスクワ南西にあるブリヤンスク周辺にいた。1943年夏、ヒトラーはソ連軍の前線を破る為の最後の賭けに出た。「ツィタデル(城砦)作戦」だ。100万人の兵士と2700輛の戦車がクルスク周辺の狭い前線に集められた。スパイからその情報を得たソ連軍も慎重に準備を整えた。134万人の兵力を集め、歩兵、砲兵、戦車、航空機を立体的に配置し、地雷・対戦車砲で固めた縦深陣地をクルスクに築いて待ち構えた。そして7月5日、遂にドイツ軍が侵攻を開始した。ソ連軍も激しい反撃で応戦。最初こそドイツ軍は、北側からモーデルの第9装甲軍がソ連軍の防御線を突破し南下、南側からホト上級大将率いる第4装甲軍が北上し、クルスクに迫った。しかし、ソ連軍の縦深陣地を全て突破するにはいたらなかった。


 7月12日には、ソ連軍の大反撃が開始され、第9軍、第4軍とも押し戻されてしまう。
ソ連軍のT―34型戦車800輛とドイツ軍第2SS装甲師団の700輛が入り乱れての激しい戦いは、史上有名な「クルスク戦車戦」として後世まで語られる程の激戦となった。両者の均衡を破ったのは、連合軍のシシリー島上陸作戦だった。7月10日、アメリカ・イギリス連合軍がイタリアの南端、シシリー島に上陸して来た為、ドイツ軍はイタリア戦線にも戦力を振り分けねばならなくなり、クルスク戦から撤退を始めた。ドイツ軍はその後四ヶ月の間に、キエフまで後退を余儀無くされた。

 同じ頃、ドイツ国内に残された人々にも過酷な状況が訪れていた。
 連合国空軍による爆撃である。1941年頃から北海沿岸に近い工業都市を中心に行われて来た爆撃が、1944年にはドイツ全土へと広がっていた。


 3月4日、アメリカ空軍によるベルリン空襲が開始され、これ以後、ドイツの都市はじゅうたん爆撃で破壊される。特に軍需産業の拠点となる都市部への爆撃は激しく行われた。多くの人々が爆撃から逃れ、都市から田舎へと疎開していった。シュツッツガルト周辺でも激しい爆撃が行われた。フォルツハイム、ハイルブロン、ヴュルツブルク辺りは都市部の約75パーセント以上が破壊され、瓦礫と化した。

 しかし、ミューラーの帰りを待ちわびるダニエラは、シュツッツガルトを離れようとはしなかった。深刻な食糧難にも、度重なる空襲にも弱音を吐かず、ミックとパトリシアを守ってなんとか生活していた。ダニエラは、缶詰め工場に働きに出ていた。食品工場だと余り物の食料が手に入りやすかったからだ。育ち盛りのミックとパトリシアを育てるには、配給だけでは栄養が足りなかった。長男のミックは既に十六歳になっていた。妹のパトリシアは十四歳。三人ともミューラーの帰りを待ちわびていた。

 ミューラーのいた中央軍団の敗走は止まらなかった。キエフからワルシャワまで後退し、更に、ワルシャワも陥落までは時間の問題だった。ミューラーは中央軍団本体とは別れ、一足早くベルリンに戻って前線の様子を作戦本部に届けることになった。
 東部戦線は、全ての戦場でドイツ軍の後退が止まらなくなっていた。


 押し込まれていたのは東部戦線だけでは無かった。

 1944年6月6日、史上最大の作戦と言われた「ノルマンディー上陸作戦」が開始された。
 北フランスのノルマンディー海岸に、米英加仏の連合軍175000人が上陸し、ドイツ軍の沿岸守備隊と激しい戦闘を繰り広げた。連合軍は、ドワイト・アイゼンハワー米陸軍大将の指揮下で艦船4600(戦艦7、巡洋艦23、駆逐艦123)、重爆撃機2500機、戦闘機・戦闘爆撃機7000機を投入した一大作戦だった。一番の激戦区となった”血のオマハF地区”では、作戦に参加した米軍兵士に75%の死者を出した。しかし、物量で勝る連合軍が徐々にドイツ軍を粉砕。ここから、ドイツ軍西部戦線の崩壊が始まった。


戦局はほぼ決していた。アメリカ軍の本格参戦によって、連合軍の兵器、物資、兵隊の数は豊富になり、ソ連軍の装備も整って来た。逆にドイツ軍は、占領地を奪われ、軍需工場や原材料を奪われて、兵力の補給が追い付かなくなって来た。鉄の結束を誇って来たドイツ軍の中にも、次第に不穏な空気が流れるようになって来た。

 軍の上層部で計画された「ヒトラー暗殺計画」である。
 その計画は、1944年7月20日実行に移された。

 国内予備軍総指令部参謀長クラウス・フォン・シュタウフェンべルク伯爵は、その日、東プロイセンのヒトラーの本部に向かった。大きな地図が張られた会議テーブルに、ヒトラーを中心として陸海空軍の元帥や将軍等24名が集まって作戦会議をしていた。シュタウフェンベルクは、その机の下に爆弾を仕込んだブリーフケースを置いて来たのだ。


 シュタウフェンベルクは向いのビルの一室から爆発を確認後にベルリンに戻り、臨時政府を打ち立てて、連合軍に和平を申し入れる手はずだった。しかし、爆発の直前、ヒトラーの直ぐわきに置かれていたブリーフケースは部屋の隅にどけられていた。爆発は起こったが、ヒトラーは無傷だった。3人の将軍や大佐が死亡し、7人が重軽傷を負った。ヒトラー暗殺計画は失敗に終わった。
 即刻容疑者はゲシュタポの手で捕らえられた。滅亡の近付いた第三帝国は、その末期に来てもなお、抑圧のネジを更に強く、きつく締めたのである。


 強制収容所に抑留された人の数は、1939年当時、約25000人いたが、戦争末期の1945年、その数は7万人に膨れ上がっていた。ユダヤ人やロシア人のガス室送りも、以前にも増して行われた。

 8月25日、ノルマンディーに上陸した連合軍は、八十日間かけてパリを奪還。パリのドイツ軍を降伏に追い込む。パリ市民はドイツ軍の占領から4年ぶりに解放され、イギリスに亡命していたフランス軍の凱旋帰国を熱狂的な歓迎で迎える。

 10月18日、ヒトラーはかろうじて残った国民に対し、「国民突撃隊(フォルクスシュトルム)」の結成を呼び掛けている。十六歳から六十歳の男性全員に対し、全滅するまで戦いを続ける様指示したのである。

 そして12月16日、ヒトラーは残った総力を全て注ぎ込んで最後の抵抗を試みる。
 フランスとの境にあるアルデンヌで行われた”バルジ作戦”である。しかしこの攻撃も最初だけうまく行くかに見えたが、連合軍の反撃にあい、3週間後の1945年1月には撃退されドイツ軍は敗走する。東部戦線もソ連軍の猛威に曝され、1月17日にはワルシャワが陥落。ソ連軍は14000台の戦車を配置、対するドイツ軍は4800台。ソ連軍の航空機は15500機、対するドイツ軍は1500機。圧倒的な物量の差の前に、ドイツ陸軍はほぼ全軍が壊滅した。ソ連軍は2月までにベルリンへ後60キロ足らずまで迫り、最後の決戦の準備を始めた。

 

第七話につづく