第五話 1939年第二次世界大戦 勃発

             

 グランプリは、1939年もメルセデスの年だった。メルセデスのW154は更にその戦闘力を上げて来ており、二段式のスーパーチャージャーを装備し、最大出力は480馬力に達した。1リッター当たり160馬力という途方もない数字だった。アウトウニオンも485馬力と、驚異的数字を示したが、総合力でメルセデスにはかなわなかった。ポー(フランス)、トリポリ、ベルギー、ドイツ、スイスの5つのグランプリで優勝をさらわれ、シリーズチャンピオンもメルセデスの若きエース、ヘルマン・ラングに奪われた。

 ポルシェ博士はこの頃、ヒトラーの命による国民大衆車の開発と共に、9月に行われる予定だったベルリン〜ローマ間レース用にフォルクスワーゲンをベースとした3台のレーシングカーを息子フェリーらと共に製作しており、ニュルブルクリンクで開催されたヒストリックカーイベントなどでテスト走行を行っていた。しかし、第二次大戦勃発の為、ベルリン〜ローマ間レース自体が中止となり、幻と終わってしまったが、このレースが行われていれば、ポルシェの名前を冠した車の最初のレースとなるはずだった。排気量はわずか1100ccと小さめだったが、最高速は145km/hに達し、流線形の空力に優れたボディ形状は、のちにポルシェの名で最初に市販されたポルシェ356を彷佛とさせるものだった。

 この年アウトウニオンは唯一、9月3日に行われたユーゴスラビア・グランプリにおいて、ヌボラーリが優勝を飾った。がこれと同じ日、二日前に起こったドイツ軍のポーランド進撃に報復する形で、英仏がドイツに宣戦を布告。遂に第二次世界大戦が勃発した。
 グランプリはこの日を最後に、戦争が終結する1945年まで中止される事となった。
     
 またドイツ軍がポーランドに進撃を開始した9月1日には、ドイツ国内ではヒトラーによるとんでもない事件が起きていた。
 ヒトラーはこの日、ドイツにおける病人の大量殺戮命令を発した。ドイツ国内の療養所や看護施設にいた病人、7万から8万人。強制収容所内で隔離されていた病人、1万から2万人、神経病院にいた全てのユダヤ人患者、教護施設に入れられていた3歳から13歳の心身障害者の子供達等約3千人、これら約10万人の病人がそれから二年の間に殺されたのだ。理由は「無駄飯食い」。働けないもの、国家の為に役に立たないものはいらない、という冷酷なものだった。


 これだけではない。ジプシーもまた皆殺しにされている。ジプシーとは元々インドの北方からヨーロッパに移り住んだ民族で、1939年当時、ドイツには約25万人が住んでいた。彼等も大部分が捕らえられ、強制収容所送りとなり、1945年には約5千人程しか生き残っていなかった。全ヨーロッパで殺害されたジプシーの数は、50万人にも上るそうだが、詳しい数字は残されていない。

 9月27日には、ドイツ軍はワルシャワを占領。


 10月には、戦闘の終わったポーランドで知識人や指導者層の大量逮捕が行われた。企業家、教師、大学教授、メディア関係、僧侶などもその対象となった。その数は百万人にも上る。彼等は皆、財産を没収され、強制収容所に入れられた。食べるものも満足に与えられず、過酷な強制労働を強いられたあげく、数年後にはガス室に送られたのだ。


 ポーランドのユダヤ人の扱いは、輪をかけてひどかった。毎晩のように、ナチスによるユダヤ人狩りが行われ、捕らえられた者たちはその場で処刑されたりゲットーに送られた。狭いゲットーには数十万人もの人々が押し込められ、多くの者が過酷な強制労働に駆り立てられ、食べるものも満足に与えられず餓死していった。隠れたり抵抗を試みた人たちは、ナチスの秘密警察、ゲシュタポやSSこと親衛隊によって引き出され、射殺されたり拷問にあったりした。


 1940年6月には、悪名高いアウシュビッツ強制収容所が開設された。
 ゲシュタポによる恐怖は、占領地だけでなくドイツ国内でも吹き荒れた。ナチスに抵抗する地下組織や、対抗勢力もわずかに残っていたが、彼等の多くは、密告や拷問による自白によって、次々と姿を消していった。
 これらの人々は、戦争の犠牲者ではなかった。ヒトラーという一人の殺人者によって引き起こされた、取り返しのつかない、殺人事件の被害者だった。

 第二次大戦中のドイツの自動車工業は、全面的に軍需産業に振り替えられた。
 ダイムラーベンツ社のV型12気筒エンジンは、ドイツ空軍の主力エンジンとなり、
ポルシェは、戦車の設計に狩り出されていた。


 グランプリを駆け抜けていった各国のレーシング・ドライバー達も否応なく戦火に飲込まれていった。1938年メルセデスでチャンピオンとなったへルマン・ランクは、メッサーシュミット戦闘機のエンジンの検査係となった。ブガッティのルイ・シロンはパリ陥落までフランスの元帥の運転手を務めた。イギリス人のウィリアムズはフランスのレジスタンスに参加して殺され、フランスの偉大なドライバー、ロベール・ブノワはレジスタンス運動を指導していて捕えられ、ブッヒェンバルトの集団収容所で処刑された。

 1940年、ドイツ軍の進撃はますますエスカレートして来た。
 4月9日にはノルウェー、デンマークに奇襲攻撃をかけ、これを占領。
 5月10日にはオランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵入。西部戦線において総攻撃を開始した。同日、イギリスではチャーチルの挙国一致内閣が成立。


 5月28日から6月3日にかけて、イギリス軍ダンケルクから撤退。
 そして6月14日にはドイツ軍、パリ無血入城を果たし、6月22日には独仏休戦協定が調印された。ヒトラーは、わずか10ヶ月でほぼヨーロッパ全土を手中に納めたのだ。

 ドイツ国内は、戦勝ムードに沸き返っていた。
 毎日の新聞を飾る、ドイツ軍、快進撃の文字。第一次世界大戦で苦渋をなめさせられたフランスの降伏。ドイツ国民の大多数が、ヒトラーの唱えるゲルマン民族の優秀性に自信を取り戻し、ユダヤやジプシーなど、ゲルマン民族以外の血を蔑むようになっていた。


 レストランには「ユダヤ人お断り」のはり紙が出され、路面電車やバスなど公共の場所では、ドイツ人席とそれ以外がロープで仕切られるようになっていた。

 ダイムラーベンツを始め、自動車産業が盛んなシュツッツガルトの街も軍需景気に沸いていた。

 ある日ミューラーは、広場で戦勝パレードが行われるというので小学生になったミックとパトリシアを連れ、ライカを首に掛けて出かけた。広場にはすでに大勢の人々が集まり、沢山の出店が並んでいた。お祭り騒ぎのように賑やかだった。ベンツのオープンカーに乗ったナチスの将校を先頭に、戦車やキューベルワーゲンに乗った兵隊たちのパレードが続く。沿道に集まった数千人の市民はナチスのスワスティカの旗を振り、兵隊さんの栄誉を称える。軍隊が通り過ぎた後、しばらくたった頃だった。パレードも終わりかと思って人々が散らばりかけたその時、ユダヤ人の数人の女達が歩いて来た。女達は、髪を剃られ丸坊主頭、下着姿で歩かされている。首には何か書かれたプラカードをかけていた。沿道から罵声が飛んだ。ミックと同じくらいの少年達が、道の小石を投げつける。その一つが先頭を歩いていた女性の額に当たった。女の額から赤い血が流れ出る。女達は身を寄せあって、足早に通り過ぎようとする。ミックが道ばたの小石を拾った。ミューラーはその手を制し、無言で首を横に振った。


 ミックはふくれっ面をしながらも、小石をその場に捨てた。
 ミューラーは違和感を覚えていた。「(これは、何かが間違っている。)」
 しかし、時すでに遅く、ドイツ全土がナチスの秘密警察、”ゲシュタポ”によって制圧されていた。毎日のようにユダヤ人狩りや共産主義者狩りが行われ、反ナチスを唱える者達は、ことごとく街から姿を消していた。ゲシュタポは、人々が寝静まった真夜中に、一般家庭を襲って容疑者を連行した。彼等だけではない。彼等を逃がしたり、かくまったりした者たちも同様だった。うわさでは強制収容所に連行されたの、拷問に合って死亡しただの、縛り首で処刑されたの、いずれにしても悲惨なものばかりだった。人々は密告を恐れ、他人を信用しなくなっていた。常に他人の目におびえるように、話の途中で後ろを振り向くようになっていた。たとえ密告が不当な間違ったものであったとしても、ゲシュタポに目をつけられたらおしまいだった。やってもいない悪行や、言ってもいない悪口を、無理矢理自白させられてしまう。人々は先を争ってナチスに鞍替えし、点数を稼ごうと他人の荒を探し始めた。もうこの時点で、ナチスやヒトラーに対して異を唱える事は誰にも出来なくなっていたのだった。


 ドイツ国内の大多数を占める善良な市民は、もはや口を閉ざす意外に方法はなかった。

 ミューラーと子供達が家に戻ったのは、日が傾きかけた頃だった。


 うす暗い家の中には明かりが付いていなかった。
「お母さん、お母さん?」パトリシアとミックがダニエラの姿を探した。
 ダニエラはダイニングテーブルに一人腰掛け、頭を抱えていた。
「ダニエラ、どうしたんだい?明かりもつけないで….」ミューラーが壁のスイッチに手を延ばすと、いきなりダニエラは立ち上がってミューラーに抱きついて来た。子供達は驚いて、だまってそばに立ち尽くしている。
「どうしたんだ、ダニエラ。何があったんだい?」
 ダニエラは、泣き腫らした赤い目でミューラーをみつめ、無言で一枚の手紙を差し出した。ミューラーは受け取ると、明かりを付けて手紙に目を通した。召集令状だった。遂に、恐れていた軍隊に召集される。ミューラーも言葉をなくして、ただダニエラの細い肩を抱いた。ダニエラが、嗚咽を堪えるようにしてまた泣き出した。

 一週間後にミューラーは身体検査を受けに行った。そして8月なかば、ミューラーはライカを片手に入隊した。
 陸軍第一歩兵連隊、中央軍団所属。最初の三ヶ月は厳しい訓練が待っていた。銃の撃ち方から始まり、手榴弾の使い方、ナイフでの格闘のやり方や暗号電文の読み方等多岐に及んだ。しかし、ミューラーに格闘技は向いていなかった。彼は上官にライカを見せて言った。


「自分は、写真が得意であります。出来れば、写真記録班に配属をお願いできないでしょうか?」上官もカメラが好きな男だった。彼は、ミューラーのライカを見て言った。
「ずいぶんと高級なカメラを持ってるんだな。腕は確かか?」
「失礼でなければ上官の写真を一枚、撮らせていただければお分かりになると思います。」上官は口元をゆがめて笑った。
「よし、撮ってみろ!その写真の出来で判断しよう。」
 ミューラーは、上官を暖炉の横に立たせ、少し横向きにポーズを取らせてシャッターを切った。帝政ロシアの将軍の絵のような構図だった。数日後、現像の上がった写真を持って上官を訪ねると、彼は嬉しそうに写真を見つめて、ミューラーに言った。
「よし、ミューラー軍曹、君を写真記録班に任命する。」
 ミューラーは笑顔で上官に敬礼した。
「ありがとうございます。がんばっていい写真を撮らせて頂きます!」
 ミューラーはこうして記録写真担当となり、出陣する部隊の装備や将校達の写真、前線に出て敵軍の人員配置や敵軍の装備、主に戦車や機関砲、機関銃などの写真を撮り漁った。


 基地に戻ると、それらにキャプションを付けて上官に提出した。将校達はその写真を参考に、作戦を計画し、人員や装備を決めていった。

 

第六話につづく