第四話 1938年ライヒス・クリスタルナハト   

          

 1938年3月、遂にヒトラーは動きだした。

 武装したドイツ軍をオーストリアに侵入させたのだ。オーストリアは、ヴェルサイユ条約でフランスの安全保障の為、ドイツとの合併は阻止されていた。にもかかわらず、ヒトラーはドイツ民族の自決を理由にこれを合併したのだ。面白くないのはイギリスとフランスだった。しかし、この所波に乗るヒトラーと、急速に国威を回復しているドイツを向こうに回して、止めさせる事は出来なかった。この半年後には、ヒトラーは更にチェコにもズデーテン地方の割譲を要求した。英仏独伊の四カ国主脳はミュンヘンに集まり、会談を行った。ヒトラーは即時ではなく、段階的にズデーテンを接収する事で同意した。
 こうしてヒトラーは、大ドイツ帝国の地図を拡大していったのだ。

 ヒトラーは5月26日、ヴォルフスブルクに新しく建てられたフォルクスワーゲンの製作工場の起工式に参加していた。
 フォルクスワーゲンの試作車は、すでにポルシェの手により二年前の1936年にはVW3が三台完成しており、5万キロ程の走行テストが行われた。その後、1937年には改良されたVW30が開発され、ダイムラーベンツ社で三十台のプロトタイプが作られている。それらは、総計二百万キロにも及ぶテスト走行をこなし、ついに生産型プロトタイプ、VW38へと発展していった。

 ヴォルフスブルクの工場は、生産台数80〜100万台を目標とする超近代的な工場だった。ヒトラーはこの起工式のスピーチで、この車をKraft durch Freude(喜びを通じて力を!)という、労働戦線のスローガンの頭文字をとって、「KdF」と名付けた。そして、この車を開発したポルシェ博士に、ドイツ功労賞を授けた。しかしこの後、この工場では一般大衆向けのKdFはほとんど作られる事はなかった。代わりにここで作られたのは、ドイツ軍の為の軍用車両だった。

 1938年、フォーミュラ・グランプリは新レギュレーションを採用した。
メルセデスとアウトウニオンの熾烈な開発競争によって、巨大化した排気量と上がり過ぎた出力を押さえる為、自然吸気は4.5リッターまで、スーパーチャージャー付きは3リッターまで、と排気量に制限が加えられた。重量も800kgまでとされ、各社対応を迫られた。
 ローゼマイヤーを失ったアウトウニオンは、撤退したアルファロメオのエース、タツィオ・ヌボラーリを迎え、グランプリに参戦することにした。
 ポルシェ博士に替わって、エーベル・ホルスト博士が開発主任についていた。博士の元、Pワーゲンも新型マシンに改良された。
 Dタイプと呼ばれるそのマシンは、3カムの60度V12エンジンを搭載し、ZF製の5段トランスミッションと組み合わされ、2ルーツ式スーパーチャージャーはエンジン後方に取り付けられた。ドライバーシートの位置も大分後方に移され、操縦性も格段に向上した。しかし、イタリアの英雄、ヌボラーリは全くドイツ語が話せず、クルーとのコミュニケーションがうまくとれなかった。結果、あまり実績には結びつかず、アウトウニオンはこの年(1938年)、2勝を上げただけだった。
 波に乗るメルセデスは、コンプレッサー付きの3リッターV12エンジンを搭載した、W154を新たに開発してきた。W154は参戦した8レース中6勝を上げ、カラッチオラは3度目のシリーズチャンピオンの座に輝いた。

 

 木々が葉を落とし、木枯らしが吹きはじめた頃、その事件は起こった。


 「水晶の夜(ライヒス・クリスタルナハト)」と呼ばれたその夜、ナチスは政権獲得以来最大のユダヤ人迫害を行った。
 1938年10月、ヒトラーはドイツに住むポーランド系ユダヤ人一万七千人に対し、国外追放令を公布した。ドイツからポーランドに送られたあるユダヤ人家族は、ポーランドからも入国を断られ、行く場所がなくなってしまった。その事をパリに留学していた十七歳の息子が知り、逆上した息子は、11月7日、パリのドイツ大使館に勤める三等書記官を射殺したのだ。その二日後、ドイツ国内のあちこちでユダヤ人に対する暴動が起こった。


 11月9日の事だった。勤勉で商売上手なユダヤ人には、裕福な家庭が多かった。そんな何百ものユダヤ人家屋、商店やユダヤ教の教会が焼き討ちされた。窓ガラスが割られ、略奪が行われ、火が放たれた。路上に散らばったガラスの破片が、まるで水晶のようにキラキラと煌めく中、現実には逃げまどうユダヤ人を追って、残虐な殺人、放火、破壊、集団リンチが行われた。74人のユダヤ人が死亡・重傷を負い、二万人が逮捕された。815件の商店と171の家屋が破壊され、191のシナゴーグ(ユダヤ教寺院)が放火された。被害総額は2500万マルクにのぼった。これによりドイツに住むユダヤ人には10億マルクという膨大な罰金が課せられ、財産の20パーセントが没収された。自分達がこうむった損害を、自分達で払わされる事になったのだ。これ以後、ドイツ国内のユダヤ人は、一部の通りに立ち入る事を禁じられ、公園のベンチに座る事を禁じられた。自動車の運転も、公営市場、遊戯場、海水浴場などもユダヤ人立ち入り禁止となった。ユダヤ人は、彼等がユダヤ人である事を隠そうとするのを防ぐ為に、ユダヤのマーク、”ダビデの星”を胸につける事を強制された。ユダヤ人にとって、民俗の誇りでもあった”ダビデの星”は、ヒトラーの手により、忌わしい迫害のシンボルとなったのだ。


 「水晶の夜」は二日に渡って続いた。街の至る所でガラスの砕ける音と罵声を浴びせる声が響いた。ミューラーもオフィスからの帰りに目撃したシナゴークの火災にライカのレンズを向けた。消防隊は、火の手の上がるシナゴークには一切消化活動をせず、ただ回りに燃え広がらない様、見物しているだけだった。

 ミューラーが上がる火の手にライカを向けていると、建物の影から二つの人陰が走り出て来た。辺りの野次馬がどよめき、人垣が揺れた。ミューラーは突然人込みに押されてよろめいた。その拍子にライカが彼の手から滑り落ちる。
 鈍い音がして、ライカが地面に当たった。落ちたライカは、人込みの中で誰かの靴に踏み付けられた。ミューラーは慌てて拾い上げた。レンズは大丈夫のようだが、フィルムの巻き戻しネジが歪んでしまっていた。人込みの中から数人の男達が、二人の行く手を阻んだ。行く手を阻まれた二人は、ユダヤ人の親子だった。子供は、丁度ミックと同じ位の背格好の男の子だった。二人は怯えた目で辺りを見回した。野次馬の中から罵声が飛ぶ。


「何こそこそ隠れてるんだ!お前等が火を付けたのか?ジュード!」
 父親は息子を自分の背後に押しやり首を横に振った。
「こいつ等が放火したに決まってら〜!」別の野次馬が叫んだ。
 男達は棒切れを片手に、親子ににじり寄った。
「やっちまえ〜!」一人が父親に殴り掛かった。父親は息子を懐に抱え込んで、男達に背を向けた。男達は親子を袋だたきにした。
 そこに黒服を着た、ナチスの親衛隊がやって来た。男達は親衛隊に気付き、殴るのを辞めた。
「何してるんだ?」親衛隊のリーダー格の男が尋ねた。
「放火犯を見つけたので懲らしめていました。」男達の一人が答えた。
 親衛隊のリーダーは、殴られて倒れたままの男を見下ろした。
「立て!」
 男はよろよろと立ち上がった。
 リーダーは、男の胸のダビデの星のマークをつまんで、男に尋ねた。

「お前が火を付けたのか?」
「とんでもない、私は中でお祈りをしていただけです!」
「うそつけ、ジュード!隠れて逃げようとしてたじゃないか!」周りから野次が飛ぶ。
 SSのリーダーは、もう一度大声で尋ねた。
「お前が火を付けたのかと聞いているんだ!」男の顔は引きつっていた。
「おい、誰か火のついた棒を持って来い。」SSの若い男が燃え盛る教会から、真っ赤に燃えた木の切れ端を持って来た。リーダーはその棒を受け取ると、父親の胸ぐらを掴み、もう一度尋ねた。
「お前が教会に火を付けたんだな!」
 父親はしわくちゃな顔で哀願するように答えた。
「私じゃない、私は火なんて付けてない!」
「じゃあ何で逃げたんだ!」
「...................」
 リーダーは男の右頬に燃え盛る木の棒を突き立てた。
 父親が絶叫する。
「お前が火を付けたんだな?」リーダーが彼の耳もとに怒鳴る。
 父親は必死に首を横に振る。リーダーは、もう一度男の左頬に燃えさかる棒を突き立てた。
「お前が火を付けたんだな?」
 父親は痙攣し、力なくうなずいた。
 リーダーは腰からワルサーを取り出すと、男の額に銃口を向けた。
 息子は目を見開いて父親を見上げている。
 リーダーは無表情に引き金を引いた。
 父親の額に小さな穴が空き、膝から崩れ落ちるようにしてあおむけに倒れた。
 息子は崩れ落ちる父親の顔を目で追った。地面に倒れた父親の額の穴から、まだ煙りが立ち上っていた。息子は父親にかぶさるようにして大声で泣き崩れた。リーダーは、その子供の後頭部にも銃口を向け、もう一発撃った。子供の泣き声は、聞こえなくなった。
 親衛隊も野次馬も、バラバラといなくなった。ミューラーは一人、親子の亡きがらの横に立ち尽くしていた。

 翌朝、ミューラーはライカを修理に出す為、シュツッツガルトの広場横のカメラ屋に向かった。広場から細い小道を曲がってライカを手に入れたカメラ屋の前まで来て足が竦んだ。あのカメラ屋も襲撃されたのだ。ミューラーは思わず駆け寄り店の前に立ち尽くした。ショーウィンドウや入り口のガラス戸は割られ、店の店内は焼けこげていた。店内に並んでいたカメラは、一台も見当たらなかった。壁にはユダヤ人のマーク、”ダビデの星”と「地獄に落ちろ」というペンキ文字が荒々しく殴り書きしてあった。ミューラーは唇を噛み締め、足下に視線を落とした。穏やかそうなカメラ屋の親父さんの笑顔が、脳裏を掠めた。ミューラーは鞄からライカを取り出すと、焼けただれたカメラ屋の残骸をフレームに納め、シャッターを切った。


 立ち去ろうとするミューラーの目に、焼跡で何か光るものが目に飛び込んで来た。拾い上げると、それはライカの銀色のレンズキャップだった。ミューラーはそれをポケットに入れ、足早にその場を立ち去った。

 

 

第五話につづく