第三話 1937年ローゼマイヤーの死

            

 1937年6月も終わりの頃、アウトウニオンとメルセデスの両チームは、仲良く大西洋の洋上にいた。ニューヨークで行われるバンダービルト・カップに出場する為、同じ船に乗り合わせていたのだった。普段、レースでしのぎを削るライバル達も、この時ばかりは仲良く四日間の船旅を楽しんでいた。


 メルセデスのエースドライバー、ルディ・カラッチオラは出発直前に2度目の結婚式を挙げたばかりだった。洋上での最初の夜、アウトウニオンのエースドライバー、ローゼマイヤーは新婚の二人の部屋を訪れ、結婚のお祝に、時代物の水差しをプレゼントした。レース中は命を賭けて戦うライバルであったが、一歩サーキットを離れると同じスピードに魅せられた男同志、お互いを認めあっていたのだ。


 しかし、ニューヨークの港に到着した彼等を待っていたのは、暖かい歓迎の言葉ではなかった。陸揚げされるレーシングマシンには、埠頭に集まった群集の中から腐ったキャベツが投げ込まれ、「国へ帰れ、ナチ野郎!」といった罵声が飛んだ。
 アウトウニオンもメルセデスも、ここではヒトラーのナチスと同義語だったのだ。両チームのメンバーは、ここで初めてドイツとアメリカの仲が相当険悪な関係になりつつある事を感じていた。

 レースはアメリカの建国記念日の翌日、7月5日に焼け付くような暑さの中、ロングアイランドの狭く短いルーズベルト・レースウェイで行われた。スタートの合図と共に飛び出したのは、ローゼマイヤーとカラッチオラだった。そこには大西洋の船上、結婚のプレゼントを取り交わした和やかな雰囲気は微塵も無かった。二人は時速250kmを超えるスピードで、命がけの一触即発のデッドヒートを演じた。勝利の女神は結婚仕立てのカラッチオラでは無く、若きアウトウニオンのスターに微笑んだ。カラッチオラのメルセデスは、スーパーチャージャーの故障で戦列を離れ、ローゼマイヤーが優勝賞金の20000ドルを手にした。

 しかし1937年のグランプリ・シーンでは、メルセデスが圧倒的な強さを発揮した。
メルセデスはこのシーズン、5勝を上げ(カラッチオラが3勝を上げ35年に続き、二度目のタイトルを獲得)、アウトウニオンはかろうじてドニントンパークの最終戦で1勝を上げた。


 ポルシェ博士とミューラー等は、PワーゲンCタイプを元にレコードブレーカーを製作していた。アウトウニオンのレコード・ブレーカーは、レコルトワーゲン”ストリームライナー”と名付けられ、直進安定性と空気抵抗を第一に考慮し、平べったく、低い車体がデザインされた。前後輪とも流麗な車体で覆い、テールは空気の流れを考慮し、薄く長く後方に延ばした。エンジンはV型16気筒をミッドシップに積んでいる。


 グランプリでの雪辱とメルセデスが持つ最高記録打破への挑戦は、その年10月、同じアウトバーンで行われた。ローゼマイヤーは臆する事無く果敢にスピードの壁に挑んだ。
結果は、SS1kmで史上初の400km/hの壁をぶち破り、406.3km/hの偉業を達成した。

 新記録達成後の11月1日、ポルシェ博士はアウトウニオンを辞めてダイムラーベンツ社のコンサルタントとしてウンタートゥルクハイムにもどった。


 そしてメルセデスは1938年、まだ肌寒い1月28日、ニューマシンで巻き返しを計った。W125のエンジンを高度にチューンナップしたレコード・ブレーカーは、5660ccのV12気筒で、最高出力は736馬力を発揮する。ドライバーはもちろん、グランプリの覇者ルドルフ・カラッチオラだ。

 抜かれたら抜き返そうとばかりに、アウトウニオンも記録挑戦の現場、フランクフルト〜ダルムシュタット間のアウトバーンにやって来ていた。そんなドイツの両巨頭が相対峙する緊張感溢れる中、朝8時20分、カラッチオラの挑戦が始まった。


 カラッチオラはチャンピオンの名に恥じない、素晴らしい記録を打ち立てた。 1km区間平均時速、432.7km / h ! 驚異的な記録だった。

 新記録達成で喜びを分かち合うメルセデスチームの輪に、人込みをかき分け一人の青年が近付いた。褐色のスポーツシャツにチロリアンハットを小意気に傾けてかぶったベルント・ローゼマイヤーだ。
「ヘイ!ルディ(ルドルフ・カラッチオラ)、新記録達成おめでとう!」人なつこそうな微笑みを浮かべていた。
「さーて、今度は俺の番だぜ。」自信のカケラが、顔を覗かせた。
 カラッチオラは真顔でこれに答えた。「ちょっと待てよ、ベルント。少し風が強くなって来た。この風では危険だ。今日はお互いもう止めにしよう!」勝者の余裕ある忠告だった。
「心配するなよ、ルディ。俺はこれしきの風にはびくともしない。それとも、新記録がすぐに破られる事の方が心配なのかい?」ローゼマイヤーはいたずらっ子の様に笑った。
「俺だったら明日まで待つがな。」諭すような口調でカラッチオラは言った。
 ローゼマイヤーはそれには答えず、金髪に爽やかな微笑みを残して立ち去った。

 すぐさま、アウトウニオンは準備を開始した。ローゼマイヤーもやる気満々だった。
 しかし、徐々に風が強まっていたのは本当だった。
「(絶対に抜き返してやる!)」負けん気の強いローゼマイヤーは、全身に闘志をみなぎらせ、無言で新型ストリームライナーに乗り込んで行った。

 1938年1月28日午後0時、ローゼマイヤーのアタックが始まった。
 徐々にスピードを上げて行くストリームライナーは、やがて空気を切り裂く弾丸と化した。

その速度が400km/hを超え、今まさに最高速に達しようとしたその時、ストリームライナーはモルフェルデンの切り通しに差し掛かった。アウトバーンの両脇に立つ木立は、そこだけわずかに途切れていた。その瞬間、ストリームライナーの車体が突風に煽られた。まるで、余りの速さに重力から解き放たれたかの様に大空へと舞い上がったストリームライナーは、しばらく静止した時間の中で宙を舞った。その巨体は空中を木の葉のようにひらひらと、銀色の車体を煌めかせながら数回転してアウトバーンの脇の斜面に激突した。車体はバラバラに飛散し、地面に落ちた。

 ローゼマイヤーは即死だった。
 アウトウニオンのクルーもメルセデスのスタッフも、その場に居合わせた全員が言葉を失った。

 ローゼマイヤーはその二月程前の1937年11月12日、愛妻エリーとの間に初めての男の子が誕生し、父親になったばかりだった。幸せの絶頂にいた天才レーサー・ローゼマイヤーを襲った悲劇にライバル、メルセデスのチーム監督、アルフレート・ノイバウアーは、彼の著書の中で語っている。


「ローゼマイヤーはモルフェルデンの切り通しが一番危険である事を承知しており、そこをいかにして通り抜けるかも知っていた。しかし、時速450kmのスピードでボンネットが受ける空気の重圧は1u当たり約460kgにもなり、風が吹けばその圧力は更に大きなものとなる。500kgもの重圧は、薄いアルミニウム板の耐えうる限界に近い。事故後のマシンのシャーシーから、アルミのボディがほとんど引きちぎれていたことから考えると、テクニックではどう仕様も無い状況に陥ったのではないか。」と。
 ようするに、マシンの構造的欠陥であって、ローゼマイヤーがいかに卓越した技術を持っていたとしてもこの事故は回避出来なかったろう、という見解だ。

 メルセデスのカラッチオラがこの時記録した時速432.7km/hは、半世紀以上たった現在でも公道上の最速記録として破られていない。がしかし、公式記録としては残っていないが、その日の午前10時30分、ローゼマイヤーは第一回目のテスト走行で、時速449km/hをマークしていた。
 両者の飽くなきスピードへの挑戦は、伝説となって今に伝えられている。

 

第四話につづく