第二話 1934年シルバーアローの伝説                

 1934年1月3日、ヒトラーと宣伝大臣ゲッペルスは連れ立ってベンツの工場を訪れた。メルセデスのニュー・レーシングマシンW25を見学する為だった。


 ヒトラーは当時、第一次世界大戦の敗北によって傷付き、弱体化したドイツの国威回復を押し進めようとしていた。力の回復、より強大なパワーへの憧れ、弱り切っていたドイツ国民は、ヒトラーの煽動に乗った。事実、ヒトラーが首相に任命された1933年には六百万人を超える失業者が溢れていたドイツで、わずか三年の間に完全雇用が実現されたのだ。ドイツの大衆は、貧困から脱し、つつましいなかにも、将来への明るい希望と自信を回復して行ったのである。


 メルセデスのニューマシンは、まさにそんなパワー信仰を具現化した様なマシンだった。当時のGPマシン、3.3LアルファロメオP3 ”モノポスト”215馬力、2.9Lのマセラティ200馬力、同じく2.9Lのフランス、ブガッティ ”タイプ59”240馬力に比べてもW25のパワーは圧倒的だった。3360ccのDOHC 4バルブ直列8気筒のパワーユニットはスーパーチャージャーを備え354馬力を発生していた。
 
 5月27日、ミューラーはアーブスレンネンのサーキットにいた。


 今日はPワーゲンのデビューレースだった。車体のバランスはまだ完全には調整出来 ていなかった。Pワーゲンのドライバー達は、練習走行でスピンを繰り返していた。彼等は皆、ミッドシップのマシンに乗るのが初めてだった。フロントシップマシンの運転に慣れた彼等は、ミッドシップのPワーゲンの挙動が掴めず、パワフルなエンジン特性も相まって、乗りこなせずに居たのだ。ピット前の直線ではパワーにものを言わせて追い抜いて行くのだが、コーナーの連続する裏コースで抜き返されて戻ってくる。直線で又抜き返す。そんな抜きつ抜かれつを繰り返し、結局三位でレースを終えた。デビュー戦にしては上出来だったが、ミューラーは悔しくて仕方がなかった。


「エンジンパワーは勝っているのに……。」


 レース後、ミューラーは毎日遅くまで事務所のデスクにかじり付いた。ミューラーは画期的なミッドシップレイアウトを持つPワーゲンが、後輪の感覚が掴みにくく、スピンしやすいという欠点を克服する努力を続けていた。最大出力295馬力、レブリミットは4500回転、高回転時よりも中回転時のトルクを優先した4358ccにも及ぶ強大なV型16気筒エンジンと200L入りのガソリンタンクを、ドライバーの後ろに積んでいる為、ドライバーズ・シートの位置が前方に寄り過ぎていたのだ。ミューラーはPワーゲンをより乗り易いマシンにする為に。車体バランスを考え、シートを後ろにずらす工夫に没頭した。

 1934年6月3日、ニュルブルクリンク・サーキットにメルセデスの新型フォーミュラーマシン、W25が初めて姿を現した。白く塗られた細みのシルエットは、その強力なエンジンに比べると見た目は小さく見えた。(白いカラーリングは当時のドイツ車のグランプリ出場時のナショナルカラーだった)しかし、このアイフェルレースでデビュー戦を前に、思わぬトラブルがW25を襲った。レース前の車検で、W25の重量が規定の750kgをわずか2kg程オーバーしている事が分かったのだ。わずか2kg。しかし、それは極限まで軽量化されたレーシングマシンにとって絶望的な重量オーバーだった。計算し尽くされた究極のマシンからは、いらない部品は何一つ無かった。追い詰められたメルセデスの技術者達が思い悩んだ挙げ句最終的に考えだした答えは、綺麗に塗装してあったペンキを剥がせば2kgの軽量化が可能、というものだった。かくして、メルセデスのメカニックは徹夜でペンキ塗装と、下地に塗った重い鉛のフィラー落とし作業を敢行した。


 翌日スタートラインに並んだメルセデスのマシンは、叩き出しのアルミ地肌がキラキラと日の光を照り返す、美しい銀色の車体だった。W25はこの記念すべきデビュー戦をフォン・ブラウヒッチュのドライブにより優勝で飾った。


 翌日の新聞は、このメルセデスのニューマシンを”Silber pfeile(銀の矢)”と形容した。ここに「シルバーアローの伝説」の一ページ目が刻まれた。


6月のある日、ミューラーはポルシェ博士に呼ばれた。博士の研究室に入っていくと、二人のドイツ軍の軍服を着た男達がいた。


「ミューラー、この方達はドイツ帝国自動車産業連盟の人たちだ。今度、ヒトラーさんが話していた国民大衆車構想の開発をやる事になった。」ポルシェ博士はそう言って、ミューラーを軍服姿の男達に紹介した。


 「いよいよフォルクスワーゲン計画のスタートですか!おめでとうございます、博士。」


 ミューラーはポルシェ博士が大分前から計画していた、小型大衆車の構想が、ヒトラーの後押しで現実のものとなる事を素直に喜んでいた。


 「さあ、これから忙しくなるぞ、君もがんばってくれたまえよ!」博士はミューラーの背中をたたいた。すると軍服姿の一人が言葉を挟んだ。


 「これはヒトラー首相の御命令だ!閣下が喜ぶような、最高の車を作ってくれたまえ!」
ミューラーはその居丈高な物言いに違和感を覚えつつも、笑顔でうなずいた。
      
 ポルシェ設計事務所とドイツ帝国自動車産業連盟の「大衆車構想」における正式な契約は、6月22日に結ばれた。そしてそのすぐ一週間後、「血の粛清事件」は起こった。


 「長いナイフの夜」と呼ばれたこの日、ナチス突撃隊幹部のレーム等、反ヒトラー派の要人数名が、ヒトラーの命令で殺害されたのだ。これでヒトラーは身近にいる危険な競争相手を一掃すると共に、過去に楯突いたシュライヒャー、グレゴール・シュトラッサー、 ミュンヘン時代のカールまで殺害した。これにより、ヒトラーの独裁は完全なものとなっていった。

 ミューラーは、相変わらず悩んでいた。


 アスファルトから陽炎が立ち上るニュルブルクリンクサーキットのピットの中は蒸し風呂状態だった。メカニック達は皆、大粒の汗を滴らせながらPワーゲンの最終調整に取り組んでいた。


 ミューラーとポルシェ博士は、夏の厳しい直射日光を避けて、木陰の中に居た。


「どうだミューラー、バランスは少しはましになったか?」
「前よりは大分改善出来たと思います。シュトック達ドライバーも随分走り込んでいますんで、マシンにも慣れて来た様です。今日はいいとこまで行くと思うんですが……」
「まだ何か引っ掛かる所があるのか?」
「ええ、ドライバー達の件なんですが、やはりフロントシップのマシンに慣れてしまった彼等では、ミッドシップのPワーゲンを運転するには限界があるのかと思いまして…」
「そうだな、Pワーゲンは独特の運転スタイルを要求するマシンだ。ドライバーがそれなりの運転方法を修得するにはまだまだ時間がかかるかも知れんな。しかし、ミッドシップのマシン自体、今までほとんど無かったんだ。覚えてもらうしか手がないだろう。」
「そこで考えたんです。フロントシップの運転に毒されていない、ピュアなレーシングドライバーはいないかと….」
「そんなやつ、おらんだろう!車の運転をした事がないレーサーなんて!」
 ミューラーは口元にうっすら笑みを浮かべて囁いた。
「それが、良さそうなやつがいるんですよ!」
「誰だ、それは?」博士はいぶかし気にミューラーの顔を覗き込んだ。


 突然爆音が響き渡った。Pワーゲンのエンジンが始動したのだ。
二人はピットを振り返った。あちこちのピットでマシンが雄叫びを上げ始めた。
「そろそろスタートですね。」ミューラーは、爆音に負けない様、ポルシェ博士の耳に口を近付けて怒鳴った。
「その話はレースが終わったら聞こう!」ポルシェ博士は、チョッキのポケットから二つのストップウォッチを取り出しながら答えた。

 レースはPワーゲンの快勝だった。
 シュトックの駆るPワーゲンはパワーにものを言わせ、ぐんぐん他を引き離して行った。
コーナーでも安定した走りを見せた。メルセデスもアルファロメオも、追い付いてはこれなかった。Pワーゲンは早くも優勝を勝ち取ったのだ!


 レース後のピットは、カメラマンや報道陣でごった返し、とても話の続きができるような状態ではなかった。それどころか、ポルシェ博士は、そんな話をミューラーがしていたことも忘れているようだった。ミューラーも、今日はそんな事を忘れて、素直に仲間達と優勝を祝いたかった。首にぶら下げていたライカを取り出し、ピットで抱き合って喜ぶメカニック達の笑顔に、シャッターを切った。
 シュトックは、表彰台の一番高い所からシャンパンシャワーの雨を振らせた。
 7月の澄んだ青空に、淡い虹が浮かんでは消えた。

 夏も深まった8月、高齢だったヒンデンブルグ大統領の死によって、ヒトラーは総統に就任した。名実共にドイツの独裁者へと昇りつめたのである。

 夏の暑さも峠を過ぎた頃、ポルシェ博士がミューラーの所へとやってきた。
「ミューラー、ニュルブルクリンクで言おうとした事、まだ覚えているかね?」
「はい、もちろんです。博士!」ミューラーは元気よく答えた。
「ドライバーでいいやつがおるとか何とか……」
「はい、Pワーゲンのドライバーに最適な人材を発見しました!」
「フロントシップカーの運転に毒されていない良いレーサーなんて、本当におるのかね?」
「はい、オートバイレーサーなんです。DKWで活躍しているベルント・ローゼマイヤーという男で、オートバイレースでは申し分ない成績を納めています。」
「しかし、四輪のレースには出た事がないんだろう?そんなのでいきなりPワーゲンのドライブは、難しいんじゃないか?」
「本人が四輪への転向を望んでいるんです。一度、テストで構わないので、乗せてみてはどうでしょう!」
「それは構わんが、果たしてうまくいくかなぁ……」ポルシェ博士は気の無い返事を残して、歩み去った。

 秋も深まった十一月、ポルシェ博士とミューラーは並んでストップウォッチを眺めていた。アウトウニオンは系列のDKWの若いドライバーを集めて、ニュルブルクリンクでテスト走行を行っていた。


「そろそろ来る頃ですね!」ミューラーが独り言のように呟いた直後、Pワーゲンの咆哮が聞こえて来た。二人は高速コーナーの出口を無言で見つめた。
 弾かれたようにコーナーから飛び出して来たローゼマイヤーがドライブするPワーゲンは、けたたましいタイヤの悲鳴を残して、あっという間に二人の前を通り過ぎた。


 ポルシェ博士は、ストップウォッチの針を見つめてつぶやいた。
「信じられん…….」
 ミューラーもその針を見つめていた。
「素晴らしいタイムです。今まで誰もこんな走り、出来ませんでしたよ!」
 ポルシェはミューラーの言葉にうなずき、Pワーゲンが通り過ぎた、誰もいないコーナーを見つめていた。
 ベルント・ローゼマイヤーは、翌1935年からアウトウニオンのワークスドライバーとして走る事になった。

 この年(1934年)、アウトウニオンのPワーゲンは2勝を上げるに留まった。メルセデスのW25も仲良く2勝を上げた。ドイツの両巨頭は、パワーでは圧倒的にイタリア勢に水を開けていたが、まだまだ開発段階であり、マシンの安定性では熟成の域に達していたアルファロメオには及ばなかった。

 1935年、ミューラーはその春、ベルリンで行われたモーターショーに家族を連れて見に出かけた。華やかな会場の風景に、ミックとパトリシアは興奮気味だ。国内メーカーだけでなく、イギリス、フランス、イタリアなど、世界の名だたるメーカーが各社自慢の新型車を並べている。中でも目立っていたのは、地元メルセデスベンツのブースだった。ミューラーはかつての同僚であり、現在はライバルであるメルセデス・ブースを複雑な思いで見ていた。しかし子供達はそんな事はお構い無しにはしゃいでいる。ダニエラがそばに来てそっとミューラーに腕を回した。
「がんばって見返してやりなさいよ!」
 ミューラーは静かにうなずいた。その後は、ミックやパトリシアのはしゃぐ姿や、ダニエラの笑顔にライカのレンズを向け、シャッターを重ねた。


 しばらく経った頃、会場の中央にある特大のステージの回りに人々が集まり始めた。
 ミューラー達も何ごとが始まるのかと思って行ってみた。するとナチスの軍服を着た将校たちが大勢ステージに上がり始めた。そして最後に大きな拍手と共にヒトラーが現れた。ヒトラーは独特の力のこもった口調で話し始めた。

「世界中からお集りの皆さん、今日はみなさんに素晴らしいお話をしにやって来ました。我がドイツでは、全世界に向けて、安くて、しかも高性能な自動車を開発し、世界中の全ての皆さんの家庭に一台ずつ、誰もが手に入れる事のできる車を作る事にしました。これからの時代、自動車は贅沢な、上流社会の貴族達だけのものでは無くなります。労働者も職人も、富めるものも貧しきものも、国民全員が自動車に乗れる、明るく、裕福な社会を築こうではありませんか!そして、その高性能な自動車が走るに相応しい、立派な道路、自動車専用道路、「アウトバーン」をドイツ全土に張り巡らそうではありませんか!    どこへ行くにも時速100km以上の高速で、安全でしかも快適に、短時間で移動出来る  アウトバーンこそ、ドイツの明るい未来を約束してくれる、虹の掛け橋となるのです!」


 ステージの回りを埋め尽くした大勢の人々から、大きな歓声が沸き起こった。歓声は徐々にシュプレヒコールに変わった。


「ハイルヒットラー!ハイルヒットラー!ハイルヒットラー!ハイルヒットラー!……」 


 大人も子供も、男も女も、全ての人々がまるで熱病にうかされたように、上気した顔で叫んでいた。
 ミューラーは少し冷めた顔つきで、ステージの中央に立つヒトラーにレンズを向け、シャッターを押した。フィルムを巻き上げつつふと横を見ると、ミックもパトリシアも、無邪気な笑顔で、みんなと一緒に声を張り上げている姿を見たのだ。

1935年、この年のアウトウニオンは前年のモデルに改良を加え、タイプBへと進化していた。排気量は4950ccに拡大され、最大出力は375馬力を絞り出していた。しかし、ライバルのメルセデスは、排気量3990ccながら430馬力を発生させていた。55馬力の差は大きかった。ドライバーもドイツ最高と言われるベテラン、カラッチことルドルフ・カラッチオラを筆頭に精鋭ばかりを揃えていた。カラッチは、ポルシェがダイムラー時代に作り上げた、名作レーシングカー、モデルSで大活躍したドライバーだ。雨中の滑りやすい中でのレースを得意とし、”レーゲンマイスター(雨の王者)”の称号を持つ、実力、経験、人気の全てを兼ね備えた男だった。ポルシェもミューラーも良く知った間柄だ。

 案の定、カラッチとメルセデスは強かった。連戦連勝を上げ、アウトウニオンは手も足もでなかった。このメルセデスの快進撃に苦渋を噛み締めていたのはアウトウニオンだけではなかった。モーターレースのひのき舞台で、イタリアそのものとなっていたグランプリの常連、アルファロメオもまた、チーム存続の危機にまで追い詰められていた。


 アルファロメオのチーム・マネージャー、エンツォ・フェラーリも、なんとかしてメルセデスの快進撃を止めようとしていた。エンツォは1929年9月29日、31歳の時に「スクーデリア・フェラーリ」を立ち上げ、アルファロメオのワークス・チームとしてグランプリに参加していた。フェラーリはイタリアの国民的英雄であるタツィオ・ヌボラーリをドライバーに迎え、打倒メルセデスを胸に、その年のドイツグランプリに乗り込んで来たのだった。


 1927年に作られたニュルブルクリンク・サーキットは全長22.8kmもあるロングコースだった。森の中を走る、狭くてテクニカルでアップダウンの多いコースは、車が宙に浮き上がる、有名なジャンピング・ポイントもある過酷なコースだった。

 7月28日、ニュルブルクリンクは、ドイツチームの勝利の栄光を見たさに集まった。 

 40万人もの大観衆に埋め尽くされていた。観客のほとんどはメルセデスの勝利を確信しており、そこに疑問を持つものは全くと言っていいほどいなかった。それほどこの年のメルセデスは、他を圧倒していた。アルファロメオを駆るヌボラーリは、スタートこそ軽い車体を活かして飛び出したが、すぐ様ブラウチスチの駆るメルセデスに交わされてしまった。パワーの差は歴然としていた。それでもヌボラーリはぎりぎりまでブレーキングを遅らせ、オーバースピードのままコーナーに飛び込んで行った。グリップを失って滑り出すタイヤを力づくでねじ伏せ、トップのメルセデスを追いかける。40万人の観客はかたずを飲んで見守った。非力なマシンのアクセルを、床まで踏み付けて走るヌボラーリの全身全霊を賭けた走りに、誰もが目を奪われた。

ラスト2周でその差は63秒、勝負は決まったかに見えた。しかし、ヌボラーリは諦めなかった。鬼神の様な走りで、1周でその差を30秒まで詰めて来た。


 ファイナルラップ、メルセデスのブラウチスチもヌボラーリが物凄い勢いで追い上げて来ている事は、ピットのサインで知っていた。しかし、ブラウチスチのタイヤも限界まで来ていた。残るはラスト1周、そして、ここは地元ドイツのグランプリだ。メルセデスは絶対に負ける訳には行かなかった。ブラウチスチも最後の力を振り絞ってアクセルを踏み込んだ。


 その瞬間、タイヤが悲鳴を上げた。

 メインスタンドの観客は総立ち。皆、息を飲んで最終コーナーを見つめている。
 遠く森の奥から甲高いエグゾーストノートが近付いてくる。
 最終コーナーの蜻蛉から飛び出して来たマシンは、真っ赤に燃える炎の様な赤だった。
 呆然とフェラーリ・レッドのマシンがゴールラインを駆け抜けるのを見送る観客達。
 遂に、銀色に輝くシルバーアローは姿を現さなかった。ブラウチスチのメルセデスは、焼けこげたタイヤの横で、寂しそうに路肩に身を寄せていた。


 ヌボラーリがメインスタンド前に戻って来た時、静まり返っていた観客席から拍手と歓声が巻き起こった。ヌボラーリの勝利を称える拍手だった。スタンドを取り巻く拍手と歓声は、やがて津波のようにサーキット全体へと広がって行った。


 表彰式の直前、ヌボラーリはコントロールタワーにあるものを持って行ったという。それは、ドイツの勝利を確信していたレース関係者が用意していなかった、イタリア国歌のレコードだった。

 この年(1935年)、メルセデスはグランプリで6勝を上げ、その中の5勝を挙げたカラッチオラがシリーズチャンピオンに輝いた。残りの1勝は、イタリアの星、アルファロメオのヌボラーリが上げた。
 ハンス・シュトゥックとイタリア人ドライバー、アキーレ・ヴァルツィ、それにベルント・ローゼマイヤーらで臨んだアウトウニオンは、1勝も上げる事が出来なかった。しかし、ローゼマイヤーはこの年の最後の選手権がかかっていないレースで、初優勝を決めた。


 チェコスロバキアのブルノで行われたマサリック杯レースでのことだった。
 ライバルのメルセデスは出ていなかったが、アルファやマセラティのイタリア勢と、ブガティらフランス勢を相手に、ローゼマイヤーは素晴らしい走りを見せた。


 このレースでは、チームメイトのハンス・シュトゥックが時速190kmで走行中、ゴーグルに燕がぶつかって脱落を余儀無くされると言う珍しい事故に見舞われたが、ローゼマイヤーは、ヌボラーリやシロンといったベテランレーサー達を相手に、記念すべき初優勝をもぎ取った。そしてこの時の表彰台で、ローゼマイヤーは運命の女性と出会った。


 若く、日焼けした健康的な笑顔が魅力的な、すらっとしたドイツ人女性、エリー・バインホルンが、ローゼマイヤーの首に月桂樹の輪をかけた。

エリーは小型スポーツ機で世界一周飛行を成功させた話題の女性飛行家だった。最近はメッサーシュミット・タイフーンで速度記録にも挑戦する活発な女性だ。スピードを愛する若い二人はすぐに意気投合し、  睦まじい仲になっていった。

 ヒトラーはこの年(1935年)3月、第一次世界大戦の戦勝国が、敗戦国ドイツに課した様々な規制や賠償を取り決めた、ヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄し、1933年から秘密裏に行ってきた再軍備を公然化した。一般兵役義務を公布し、軍隊を拡大。ドイツ人の血と名誉を保護する為の法、ニュルンベルク法を公布し、ユダヤ人の市民権を剥奪した。

 ヒトラーは元々、オーストリア・ハンガリー帝国内のリンツで生まれたオーストリア人だった。1889年4月20日生まれと言うから、フェルディナンド・ポルシェの十四歳年下と言う事になる。ポルシェは1875年9月3日、同じオーストリア・ハンガリー帝国時代のボヘミア地方にあるマッフェルスドルフという村で生まれた。マッフェルスドルフは現チェコの首都プラハの北東約60kmに位置する小さな村だ。ヒトラーは首相に任命される前年、1932年にドイツ国籍を取得している。ヒトラーの下、フォルクスワーゲンの開発に没頭していたポルシェは、1935年に本人も知らぬ間にドイツ国籍にされていたと言う。理由はどうあれ、世界中に最も広くその名を知られた二人のドイツ人が、元々違う国の国民だった事は興味深い事実だ。

 二人が最初に出会ったのは1925年の事だった。

 シュツッツガルト郊外のゾリチュードにあるサーキットで行われたレースで、当時ダイムラー社の技術担当重役だったポルシェと、ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の党首だったヒトラーは出会っている。しかし、この時は挨拶を交わした程度であった。ヒトラーはこの時、数カ月前に刑務所から釈放されたばかりだった。1923年のミュンヘン一揆でバイエルン州政府乗っ取り事件に失敗し逮捕され、1924年2月26日の裁判で5年の禁固刑に処せられたが、ランズベルクの刑務所内で、「我が闘争」の第一稿を書き上げた1924年12月20日、わずか十ヶ月程で釈放されたのだ。

 ヒトラーはそこからわずか8年で首相の座を手に入れ、10年かからずに総統の地位まで昇りつめたのだった。
      
 ミューラー等ポルシェ設計事務所とアウトウニオンの技術陣はこの冬、正に死にものぐるいでPワーゲンの改良に取り組んでいた。1935年のシーズンの屈辱を晴らす為、メルセデスのマシンに追いつき追い越せを合い言葉に、考えうるあらゆる策を検討した。そして、エンジンにも大幅な改良が施された。そうして出来上がったマシンが、PワーゲンCタイプだった。


 メルセデスの1936年モデルは4740cc,494馬力。PワーゲンのCタイプは6010ccで520馬力/5000rpmを絞り出した。最大トルクは87kg/2500rpmという驚異的な数字をたたき出していた。アルファロメオの3160cc,265馬力はもう完全に敵ではなかった。

 1936年シーズンは、正にローゼマイヤーとアウトウニオンの年だった。
 PワーゲンCタイプとローゼマイヤーの相性は抜群で、操縦の難しさも若いローゼマイヤーにとっては、「レースカーとはこういうもんさ!」と言う程度のものだったようで、ミッドシップの乗りにくさや強力なパワーで暴れる後輪もそれほど気にしてはいなかった。


純粋なアーリア系の家系に生まれたローゼマイヤーは、端正な顔だちとは裏腹に、激しい闘争心と豪放なドライビングテクニックを持っていた。そして何より、レーシングマシンはこのPワーゲンが初めてだった。なんの先入観も持たずに、この戦う為だけに生まれて来た先進のミッドシップマシンに乗り始めたのが良かったのだろう。
 ミューラーは、ローゼマイヤーの活躍を我が事のように喜んでいた。

 そしてこの年の8月は、ベルリンで第十一回オリンピックが開催された月でもあった。
ベルリン・オリンピック・スタジアムは六万七千人の大観衆に包まれ、上空にはドイツが誇る巨大な飛行船、ツェッペリン号がその勇姿を誇示していた。そんな中、ヒトラーはグロッサーメルセデスのオープンカーで登場した。


 ヒトラーとナチス幹部が見守る中、オリンピック史上初となる聖火リレーも行われた(これは敵状視察の目的が隠されていたという噂もあるが)。華やかに催された開会式、四十九ヶ国四千人が参加したこの大会、選手の入場行進は、ナチスのハーケンクロイツ旗が最後を飾った。またこの大会から初めて世界三十七ヶ国を結ぶ初のラジオによる世界同時中継やテレビの試験中継なども行われた。
 ヒトラーは貴賓席から全世界に向けて開会を宣言した。


 ヒトラーのプロパガンダと言われるベルリン五輪で、国を上げて選手強化を計って来た ドイツチームは、大会トップの三十三個の金メダルを獲得し、ドイツの国威と平和を全世界にアピールしたのだ。

 グランプリシーンでは、1936年シーズンも後半に差し掛かっていたその日、ローゼマイヤーは愛車、ホルヒのエレガントなカブリオレに、エリー・バインホルンを乗せて現れた。


 パドックの裏でローゼマイヤーの姿を見つけたミューラーが声をかけた。
「やあ、ベルント、今日も御機嫌のようだね。こんなに美しいひとが応援してくれるんだ。今日のレースも頂きだな!」
 ローゼマイヤーは照れながら屈託のない笑顔を作った。
「彼女は僕の勝利の女神なんですよ。」


 エリーは涼し気な目もとに魅力的な微笑を浮かべた。白いレースの手袋をはずすと、ミューラーに右手を差し出した。ミューラーも帽子をとってその細い手を握り返した。外見の優しそうな微笑みとは違って、彼女の手は女性にしては力強かった。
「そうだ、エリーさん、一枚写真を撮らせて下さい。女房に見せたらきっと喜びます!」
 ローゼマイヤーとエリーは、ホルヒのシートの上で肩を組んだ。ミューラーは首からぶら下げていたライカで二人の微笑を撮影した。


 案の定、その日のレースもローゼマイヤーのぶっちぎりだった。ローゼマイヤーは表彰台の上に彼女を抱き上げ、大観衆の見守る中、彼女を抱き締めKissをした。
 歓声が一際高くこだました。

 その年のシーズン半ば、ローゼマイヤーとエリーは出逢いからわずか一年程で、めでたくゴールイン!
 ミューラーも家族を連れて結婚式のお祝に駆け付けた。スピード狂で美男美女の似合いのカップルは、この上ない幸福な笑顔を浮かべていた。参列した大勢の仲間達も、その時のドイツ国民の幸福感を象徴するかの様な二人の姿に、明るいドイツの将来を夢見ていた。

 この年1936年のグランプリでは、シュトック、ヴァルツィ、ローゼマイヤーのアウトウニオンチームは、全9戦中6勝を上げた。ローゼマイヤーはその中の5勝を一人で稼ぎ出し、デビューからわずか二年目にして、シリーズチャンピオンの座を手に入れた。
 メルセデスのカラッチオラは、2勝をあげるに留まった。

 そんな喜びに満ちたアウトウニオンレーシングチームに、衝撃のニュースが伝わった。
 メルセデスチームがカラッチオラのドライブにより、レコードブレーカー、最高速度挑 戦車によって、六つの世界記録を打ち立てた、というニュースだった。


 マスコミは大々的にニュースに取り上げ、人々の話題はレコードブレーカーで持ち切りとなった。
 メルセデスのレコード・ブレーカーは、出来たばかりのフランクフルト〜ダルムシュタット間のアウトバーンに、巨大なV型十二気筒エンジンの専用マシンを持ち込み、300km/h台後半の公道における最高スピード記録を樹立した。

 早速アウトウニオンの上層部も、メルセデスの記録を撃ち破る為、レコード・ブレーカーの開発を命令して来た。
 ポルシェ設計事務所とアウトウニオン・レーシングは、最高速記録にも挑戦する事になったのだ。

 メルセデスの逆襲はそれだけではなかった。翌1937年のグランプリにも新設計のマシンをデビューさせて来たのだ。”W 125”である。排気量は5660ccで、最大出力はGP史上かつて例の無い646馬力と言う、とてつもない怪物だった。このマシンの性能は、静止から時速60マイル(97km)がわずか4秒。時速225キロまでが11秒。最高時速も320kmという驚異的な数字に達した。アウトウニオンもこれに対抗するべくPワーゲンに改良を重ねたが、メルセデスベンツにはかなわなかった。すでにトップレベルの戦いからはずされていたアルファロメオも、資金不足から思うような開発が出来ず、寂しくGPレースから撤退して行った。

 

 

 

第三話につづく