傷だらけのライカタイトル

第二十二話 1968年プラハの春                    

 1968年8月20日、ボリスはチェコスロバキアの首都、プラハへとやって来ていた。

チェコスロバキアは1968年初頭、1953年から続いてきたノボトニーの独裁政治に終止符を打ち、改革派の指導者、ドゥプチェクの元 ”人間の顔をした社会主義”をスローガンに、様々な改革を押し進めた。言論や集会の自由や検閲の廃止、市場経済の導入など市民発生的な民主化や自由化の気運が高まり、チェコ市民はこれを「プラハの春」と呼んでこうした気運を歓迎した。ところが、周辺の社会主義国の支配階級はこうした民主化の動きに深い嫌悪感を露にした。1968年3月、ワルシャワ条約機構首脳会議が召集され、ソ連のブレジネフ書記長以下、各国の指導者達は「プラハの春」を激しく非難し、民主化の波が自国へ及ぶ事を心配した。6月にはソ連が軍事介入の威嚇を始め、チェコ市民は二千語宣言でこれに対向、女子体操の金メダリスト・チャスラフスカ等もこれを支持した。
 しかし8月20日、遂にソ連軍を主力とするワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに侵入。ドゥプチェク以下改革派の要人達を逮捕した。プラハの街では武力介入に抵抗する一般市民にソ連軍が銃撃を行い、数十名の市民が射殺された。

 ボリスはその時、街の中心部にあるバーツラフ広場に集まった大勢のチェコ市民のデモ隊に混じってその様子をライカに収めていた。すると広場の反対側から大きな金属の軋む音と共に、何十台もの戦車が広場に入って来るのを見た。人々は一斉に逃げまどい、ボリスは人波に飲込まれた。後頭部に強い衝撃を受け、前のめりに石畳の上に倒れた。誰かに抱き起こされ、数人の人々の手で抱えられ、どこかに運ばれた。運ばれながらボリスの意識は段々と遠くなって行った。

 何時間位経ったのだろう。気が付くと酒場の床に寝かされていた。体を起こそうとすると、首の後側が痛んだ。思わず後頭部を擦ると、固まりかけた血が手にこびり付いてきた。

辺りを見回すと、何人もの傷付いた人々が横たわっていた。ふと気づきライカを探したが、ライカはどこにも見当たらなかった。

 モスクワに連行されたドゥプチェクは、改革の中止を取り決めた議定書にサインする事を余儀無くされ、チェコスロバキアの「プラハの春」は、ソ連の戦車によって踏みつぶされたのだった。

 

 1968年F1の主流はフォード・コスワースDFVエンジンで、第6戦フランスグランプリのフェラーリを除いて、残る11戦は全てフォードDFVが勝っている。
 この流れは翌年も止まらず、1969年は全てのレースがフォード・コスワースDFVが勝利した。

 1968年、FIAのレギュレーションが変更され、プロトタイプは3Lまで、スポーツカーは5Lまでと排気量が制限される事になった。各社とも対応に追われ、ポルシェも新たなラインナップで戦う事になった。3Lクラスには907を発展させた908を、そして5Lクラスには917という全く新しいマシンが開発される事になった。
 まず出て来たのが908だ。907同様のクーペ・バージョンで、スペース・フレームにFRPの軽量ボディが被せられ、エンジンは911をベースに空冷フラット6、DOHCの916型を8気筒にしたもので、排気量も2997ccとなり、350ps/8400rpmのパワーを発生した。
 ニュルブルクリンク1000kmで初勝利を収め、世界耐久選手権最終戦として9月28〜29日に行われたル・マンにも出場したが、ル・マンではプライベート・エントリーの907LHがフォードGT40に次ぐ2位に入り、ワークス908は第3位に終わった。
 またこの年、日本の生沢 徹 がポルシェ・ワークスのドライバーとしてワトキンスグレンのレースで908のステアリングを握り、6位入賞という成績を収めている。

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第二十三話につづく