
第二十一話 1966年カレラ6の活躍
1966年、ボリスはポルシェの中でも一番好きなマシンと出会った。「カレラ6」の登場だ。

モデルNo.906カレラ6は、フェルディナンド・ピエヒを中心として開発された。
生産型の911用901エンジンを大幅にチューン・アップした901/20型エンジンは、1991cc、SOHCフラット6で、ミッドシップにレイアウトされた。最高出力210ps/8000rpm、最大トルクは20kg-m/6000rpm。FRP製の低く流麗な軽量600kgボディを280km/h以上まで引っ張った。
チューブラー・スペース・フレームの採用により、ドアはガルウィング・タイプとなり、グループ4スポーツカーのホモロゲートを得る為、50台が製作された。
その後、機械式フューエル・インジェクション仕様の6台や8気筒エンジン仕様の4台等、15台が追加で製作された。
ポルシェ・カレラ6は、デビュー・レースのデイトナ24時間で総合6位、クラス優勝を飾り、タルガフローリオでも優勝。ル・マンではユノディエール・ストレートのトップスピードを稼ぐ為ロングテールのル・マン仕様も投入され、4〜7位を占め、プロトタイプ2000ccクラスで優勝を飾った。最終戦ホッケンハイムでも優勝を飾り、ポルシェは 66年度の2000ccクラスコンストラクターズ・チャンピオンシップを獲得した。
市販車部門ではポルシェ911も3年目に入り、高価格ながら飛び抜けた性能とステイタスによって順調に売り上げを延ばしていた。911は1966年、その高性能バージョンをデビューさせた。911Sである。エンジンは911と同じフラット6ながら、高度なチューンナップが施され、出力は30馬力アップの160ps/6600rpm、18.2kg-m/5200rpm、トリプル・チョーク・ウェーバーを2基備え、最高速は225km/hに達し、0ー100km/hは7.9秒。世界最速の2リッタースポーツカーであった。このモデルから、後に911のトレードマークともなったポルシェ・パターンのアロイホイールが採用された。
1966年当時、911Sの日本での販売価格は911より75万円アップの510万円で、タルガモデルは35万円高で販売された。

そしてこの年(1966年)、ル・マンの総合優勝を奪ったのは常勝フェラーリの真紅のマシンではなかった。この年デイトナ24時間で1、2、3位。続くセブリング12時間でも1、2位と連続制覇し、意気揚々とル・マンに乗り込んできたアメリカン・マシン、フォードGT40 Mk-2だった。6982cc、V8エンジンのGT40 Mk-2は、1位から3位を独占し完璧な勝利を挙げ、1960年から6年間も続いたフェラーリの牙城を遂に粉砕したのだった。フェラーリ275GTBはカレラ6に次ぐ、8位がやっとだった。優勝したクリス・エモン/ブルース・マクラーレン駆るGT40 Mk-2 GTXは、平均速度で史上初の200km/hを超える202.8km/hを記録し、最速ラップは228.6km/hをマークした。ミュルサンヌ・ストレートでは最高速度350km/hオーバーで悲願のル・マン初制覇を遂げた。フォードGT40は翌年、Mk-2に更に改良を加え、”バトルシップ(戦艦)”の異名をもつMk-4へと発展し、その後も69年まで4年間、ル・マンの王座を守り抜く。ちなみにGT40の40は車の高さを現している。車高40インチ(1029mm)から付けられた名だ。

同年(1966)5月3日、ポルシェ・カレラ6は日本にもやって来ていた。出来たばかりの富士スピードウェイで行われた第三回日本グランプリでの事だ。プライベーター滝 進太郎のカレラ6は、第二回日本グランプリで式場荘吉の904カレラGTSにこっぴどく打ち負かされたプリンス・ワークスが必勝を期して送り込んで来たニューマシン、R-380軍団のチームプレーとワークス体勢の前に苦渋を飲まされる。
しかし翌年、1967年の第四回日本グランプリでは、当時日本人で一番F-1ドライバーに近い存在だった生沢徹のドライブで見事優勝を飾っている。生沢は、前年の第三回日本グランプリではプリンスのワークス・ドライバーとして、滝のカレラ6を封じ込める役回りを演じた。彼はその後、プリンスを辞めて単独でヨーロッパに武者修行に出ていた。「ジム・ラッセル・レーシングスクール」で腕を磨いた生沢は、ヨーロッパでフォーミュラ・リブレやF-3レースに参戦していた。そうして磨いた腕を日本グランプリで披露しようと一時帰国し、古巣のプリンスから出場しようとしたが、プリンスはその時既に日産に吸収合併されており、多くのワークスドライバーを抱えていた為断られてしまう。出場するマシンが見つからない生沢は、個人でスポンサー探しに奔走し、やっとの思いでペプシコーラと当時一斉を風靡していた若者のファッション・ブランド、VANをスポンサーに付け、ポルシェ・カレラ6を調達した。カレラ6を駆る生沢は、日産チームの「四匹のサムライ」と言われた高橋国光、北野 元、大石秀夫、砂子義一等を押さえ、誰も切った事のない2分の壁を破って「1分59秒43」というコースレコードでポールポジションを獲得した。
決勝ではもう一台、プライベーターとしてポルシェ・カレラ6で参加していた酒井 正とデッドヒートを演じた。
46周目、富士スピードウェイ伝説の1コーナー”30度バンク”に並んで飛び込んだ2台のカレラ6は、どちらも引こうとはしなかった。30度バンクの最上段に位置していた酒井のカレラ6が突然ガードレールを飛び越え空中に飛び出すとまっ逆さまに地面に叩き付けられた。カレラ6は大破し、原形をとどめない無惨な姿に変わり果てた。しかし、ドライバーの酒井は、奇跡的にもかすり傷程度で無事にマシンから脱出した。日本におけるポルシェの安全神話は、この時に生まれた。その後、日産勢の激しい追い上げを受けた生沢だったが見事これらを押さえきり、意地の優勝を果たした。R-380は2〜4位を占め、高橋国光が準優勝を飾った。
生沢はレース後すぐにヨーロッパに戻り、F-3シリーズに参加を続け、日本人初のチャンピオンシップを獲得した。また、1967年9月3日にはニュルブルクリング500kmレースに白地に日の丸をデザインしたホンダS800で出場し、ロータス・エランやアバルトなどの強敵を押さえて1000cc以下のGTカークラスで優勝を飾った。決勝出場台数82台中、総合で11位という立派な記録だ。これは、国際レースで日本人ドライバーが日本製マシンで優勝した初の快挙となった。表彰台であどけない笑顔を見せた生沢だが、大会役員側では日の丸も君が代も用意が無く、ユニオン・ジャックとイギリス国歌「God save the Queen」が流されたと言う。
1967年シーズン、ポルシェ906は改良が加えられ910(カレラ10)としてレースに出場する。エンジンはカレラ6から受け継いだ6気筒バージョンと、F1用753型エンジンと平行して開発された771型21、8気筒DOHCバージョンがあった。この8気筒エンジンは後に2195ccまでボアアップされ、フューエルインジェクション仕様で最高出力270ps/8600rpm、23.5kg-m/7000rpmを発揮した。カレラ10は全部で28台が生産された。タルガフローリオやニュルブルクリング1000kmレースでトリプル・ウィンを決めるなど活躍し、この年の2リッター・プロトタイプクラスのチャンピオンに輝いた。
カレラ10は、日本には翌1968年 第五回日本グランプリに生沢 徹 のドライブで出場し連覇を目指したが、北野 元 駆る高々とリアウイングを掲げた”怪鳥”日産R381に次ぐ準優勝に終わっている。

そしてこの年(1967年)、もう1台906から発展したマシンがル・マンにエントリーしている。
モデルNo.907LH(Lang Heck) だ。ル・マン-スペシャルとも言うべきこのマシンは、空気流動を考えたロングテール・ボディに910と同じ1991cc、フラット6エンジンを積んでいた。決勝では2台の6980ccのフォードGT40 Mk-4と2台の3983ccフェラーリ330P4に次ぐ第5位に入賞し、プロトタイプ2000ccクラスでの優勝を決めた。
1967年、911は更に進化した強力モデルを発表する。「911R」の登場だ。
911Rは911のボディを極限まで軽量化し、カレラ6に相当するハイチューン・エンジンを積んでいた。フェンダーやバンパーがグラスファイバー製となり、サイド及びリア・ウィンドウにはプレキシ・グラスが使われた。内装は簡素化され、シートはバケットシートに換えられていた。これらにより重量は911Sより280kg軽い800kgとなった。
ボリスは1967年9月10日、F1第九戦イタリア・グランプリの取材でモンツァ・サーキットに来ていた。観客席をうめ尽くすフェラーリの赤旗を振り回す熱狂的な数十万人のティモシ達も、このところ精彩を欠いたフェラーリの成績になかばやけくそのようになっていた。
今回ボリスが注目していたのは、東洋の弱小メーカー、ホンダのニューマシンだった。
ホンダは昨年より3000ccのF1マシン、RA 273を投入しフル参戦を続けていたが、目立った成績は収められずにいた。RA 273はパワーはあるが、エンジンとシャーシの重量が他チームのマシンに比べ相当重かった。そこでホンダはイギリスのF1コンストラクター、ローラに軽量シャーシの製作を依頼した。ローラはインディ用のT-90のシャーシを流用して、短期間でRA 273に代わるシャーシを作り上げた。ホンダとローラが合体して出来た事から”ホンドーラ”とも呼ばれたそのニューマシン、RA300は今回このイタリアグランプリでデビューする。ドライバーは1964年にフェラーリでワールドチャンピオンに輝いたジョン・サーティース。ジョンは1956年、二輪の500ccで世界チャンピオンを獲得し、その後も’58〜60年の3年間500ccと350ccのダブルタイトルを獲得した不世出の二輪チャンプだ。二輪とF1の両方で世界チャンピオンの座に付いたのは、長い歴史の中でも彼ただ一人の快挙だ。1960年にF1デビューし、わずか二戦目にして2位入賞を果たした実力の持ち主だ。しかし、今回ポールポジションを獲得したのは’63、65年のワールド・チャンピオン、ロータス49駆るジム・クラークだった。ジムは4戦連続でポールポジションを獲得しており、ピカ1の速さを誇っていた。
決勝は案の定、波に乗るジム・クラークが飛び出した。しかし彼はパンクの為、一時周回遅れとなるまで順位を落とす。そこから脅威の追い上げで再びトップに還り咲いた。にもかかわらず、最終ラップ、ジムはガス欠の為スピードダウン。勝利の女神に見放されてしまった。代わってトップに躍り出たのが昨年の覇者(’59、60、66年度ワールド・チャンピオン)、ブラバム・レプコ駆るジャック・ブラバムとホンダのジョン・サーティースだった。二台はテール・トゥ・ノーズでファイナルラップを駆け抜け、いよいよ最終コーナー・パラボリカへとやって来た。最初に飛び込んだのはブラバムだった。ブラバム・レプコBT20はほんの少しオーバースピードだった。テールがわずかに外へ流れ、マシンはふくらんでいった。そのわずかな隙をサーティースは見のがさなかった。ファイナルラップの最終コーナーで、サーティースはブラバムを捕らえたのだ。直線に躍り出る二台のマシン。
サーティースはシフトアップもせずに床までホンダRA 300のアクセルを踏み抜いた。
観衆総立ちのメインスタンド前、ブラバムがスリップストリームから抜け出しホンダに並びかける。場内は一瞬静まり返った。
結果はわずか0.2秒差。ホンダがブラバムを押さえてゴールラインを駆け抜けていた。
ホンダの記念すべき2勝目は、劇的な逆転勝利で決まった。スタンドをうめ尽くしていたティモシ達は、3年前フェラーリでワールド・チャンプに輝いたジョンを身内として祝福した。盛大な拍手と歓声が、RA 300とジョン・サーティースを包み込んだ。

ホンダとジョン・サーティースはこの後、1968年シーズンまで一緒に戦うが、ホンダは空冷マシンRA 302などの斬新な挑戦もしたが、68年最終戦をもって第一期F1活動に終止符を打った。
1967年、イタリアのトリノ・ショーでディーノ206GTが発表された。

ミッドシップに搭載されたV6ディーノ・エンジンは排気量が1986.6cc、180ps/7400rpm、17.85kg-m/5600rpmのパワーを発揮した。ボディはアルミのスカリエッティによるたたき出しで、車重は900kg。エンツォはこの車を”ディーノ”と名付けた。最愛の息子で、11年前に筋ジストロフィーから腎臓障害を併発して24歳の若さでこの世を去ったアルフレディーノの愛称だ。この車にはフェラーリのロゴも、跳ね馬のエンブレム、カバリーノ・ランパンテも付いていない。あるのはフロントノーズの先にちょこんと付いたDinoのエンブレム。このエンブレムに使われたDinoのロゴは、アルフレディーノのサインを元に作られている。

エンツォは亡くなる数年前、モデナの病院に多額の寄付をしている。それは、筋ジストロフィーの研究用にとの事だった。毎朝、死ぬまでディーノの墓参りを欠かさなかったエンツォの息子に対する思いは、はかり知れない程深かった。
ディーノ206GTは翌年1968年からデリバリーが開始され、69年にはポルシェ911に対向して2.4Lまで拡大したエンジンのDino 246GTへと発展する。2418.4cc、195ps/7600rpm、23.0kg-m/5500rpm。しかしボディがアルミからスチール製になる等1080kgと重量も増し、ボディ・サイズも一回り大きくなった。ディーノはその後、細かいバージョンアップを繰り返し、72年にはタルガ・トップのGTS等も作られ、最終的に74年までの間に3911台が作られている。
