
第十六話 1961年ベルリンの壁
年が明けて1961年1月20日、アメリカの第35代大統領にジョン・フィッツジェラルド・ケネディが就任した。彼は合衆国大統領史上最年少の43歳で、初のカトリック教徒でもあった。ハーバード大学を卒業し、太平洋戦争が始まると海軍に志願して魚雷艇の艇長となった。しかし、ソロモン沖海戦で日本軍に撃沈されるが、部下達と共に救助された。
戦後民主党に入党し、1946年マサチューセッツ州から下院議院に立候補、見事当選を果たす。52年には上院議院となり、57年には「勇気ある人々」という政治家の伝記を著わし、報道関係では世界でもっとも権威ある、ピューリッツァー賞を受賞している。そして1960年の大統領選で、弟ロバートを選挙参謀にすえ、共和党候補のニクソン副大統領と激戦を演じた。テレビ討論などで若さと進歩的なニュー・フロンティアというスローガンをアピールし、接戦の末大統領の座を獲得した。
1961年4月12日、ソビエト連邦はスプートニクに続く宇宙開発で、またまたアメリカを大きく出し抜く偉業を成功させた。ボストーク1号による、人類初の有人宇宙飛行だ。
宇宙飛行士の名は、ユーリ・アレクセビッチ・ガガーリン中尉。
彼は1934年3月9日、ソビエト連邦のスモレンスクに生まれた。そして1957年にオレンブルグ航空士官学校を卒業して、ソ連空軍のパイロットになり、選抜されて宇宙飛行士となった。ガガーリンの乗ったボストーク1号は、モスクワ時間の午前9時7分、中央アジア・カザフスタンのバイコヌール宇宙基地から、大陸間弾道ミサイルICBMの技術を基に作られたA-1ロケットによって打ち上げられた。A-1ロケットは、直径10.3m、全長38.4m、重さ287トンで、大小24基のエンジンが積まれていた。ボストーク1号は、地上181〜327kmの高度に達し、大気圏を脱出して地球周回軌道に乗った。
大気圏の外に人類として初めて脱出したガガーリンは、無線でその感動を地球に伝えた。それがあの有名な一言、「地球は青かった!」だ。
彼はその後、無重力の中で無線のテスト等を繰り返しながら地球の周りを1周し、機械船を切り離した後、耐熱シールドに覆われた直径2.3mの丸い銀色のカプセルで大気圏に再突入を果たした。高度約7000m付近でカプセルから射出シートで脱出し、パラシュートで降下。打上げからわずか1時間48分後の10時55分にはボルゴグラードの北、サラトフ近郊に無事着陸した。ガガーリンはソ連国民の熱烈な歓迎で出迎えられ、帰還と同時に少佐に特進した。モスクワの赤の広場では、フルシチョフ首相も出席して、英雄を迎える大歓迎式典が催された。
この年のポルシェは、RS 60に改良を加えたRS 61をレースシーンに送り込んだ。
RS 61はエンジンが4機種揃えられ、レースによって選択された。1498cc(547/3)、1588cc(547/4.5)、1606cc(547/5)、1967cc(587/3)で、最大排気量の1967ccエンジンは後にカレラ2や904に搭載されたエンジンだ。185ps/7200RPM、21.5kg-m/5000rpmというパフォーマンスを見せた。RS 61はこの年のル・マンに、スパイダーだけではなくクーペボディのバージョンも持ち込んでいた。

結果は、1967ccのRS 61スパイダーが総合5位でS2000クラス優勝。1606ccのクーペが総合7位でS2000クラス2位。1588ccのGSカレラ・アバルトGTLが総合10位、GT1600クラス優勝を飾った。
総合ではフェラーリがトリプル・フィニッシュを決めて、250テスタロッサ(2961cc)が昨年に続き、2連勝を挙げた。
1961年8月10日、ボリスはいつものように自転車で会社に出社し、取材して来たレース写真の整理をしていた。するとそこに上司のブッチことミハエル・ブコビッチがやってきた。「ボリス、急な仕事で悪いんだが、報道の手伝いでベルリンまで出張に行ってくれんか?」ボリスは軽い気持ちで首を縦に振った。ベルリンの蚤の市でライカのレンズの掘り出し物探しもしたいし、スピードスターのパーツも手に入れたかった。それに、海外出張は特別手当てが付くので、ボリスのへそくりの大事な収入源だった。
「いいですよ、ブッチさん。こないだの取材整理は急ぐもんでもないし、何を撮ってくればいいんです?」
「東ドイツで、遂に西ベルリンを封鎖する動きがあるらしい。詳しい事は、報道のキャップに聞いてくれ。」
これまでにも何度か、こういった具合に報道のニュース班で手が足りない時、助っ人として取材に出る事があった。報道部へ顔を出すと、緊急ミーティングが行われていた。ボリスは、詳しい説明を受ける前にミーティングに参加する様言われ、いつものお気楽なスポーツ・イベントの取材とは違った印象を受け、一抹の不安を感じた。
出発は翌朝、早朝からだった。記者やカメラマン数人とモスクワ空港で落ち合い、アエロフロート機に乗り込んだ。一行はベルリンに到着すると、東ベルリンの中心部にあるホテルへと向かった。空港から列車でポツダム広場駅に到着すると、厳しい検問が待っていた。
パスポートは言うに及ばず、ボストンバッグの中まで検査を受けた。今まで何度も訪れていたが、こんなに厳しい検問は初めてだった。
東ドイツでは最近、労働者の西ベルリンへの亡命が急増し、その取り締まりに躍起になっていた。
昨年も一年に約20万人を越す人々が西側へ亡命したという。第二次世界大戦以降、東西に分割されたドイツは、1949年、正式に独立した二つの国家に別れた。社会主義の東ドイツはドイツ民主共和国となり、民主主義の西ドイツはドイツ連邦共和国となった。
首都ベルリンは東ドイツ領内にあったが、東西に分断され、それぞれの国が統治していた。
ようするに西ベルリンは、社会主義国家に浮かぶ民主主義の孤島だったのだ。
それから10年余りの間に、東と西では格差が生まれた。社会主義の東ドイツは、労働者に過酷なノルマを与え、締め付けを厳しくした。民主主義となった西ドイツは、経済の復興も早く、劇的な発展を遂げていた。労働者は東から西へ流れ、東ドイツには深刻な問題となっていたのだ。
そして8月3日、ワルシャワ条約機構の国々は首脳会議で西ベルリン封鎖を承認した。
ボリスがベルリンに到着した翌日、8月12日午後4時、東ドイツの指導者、ウルプリヒト国民議会議長が西ベルリン封鎖の命令書に署名をした。夜に入って街が静まり返った午後10時30分、国家人民軍と警察部隊が出動し、西ベルリンを取り囲んだ。市民はこれから一体何が始まるのか不安を胸に建物の中でひっそりと息を潜めていた。そして8月13日午前零時、遂に西ベルリンとの境界に鉄条網の建設が始まった。夜間、美しいライトアップがなされていたブランデンブルグ門も午前1時過ぎにはライトアップが消され、辺りは暗闇が支配した。
その頃から西ベルリンでは騒ぎが大きくなり始めた。1時54分、東ドイツから西ベルリンに来るはずの列車が来ないと、西ベルリン警察本部に通報が入った。
2時過ぎになると、西ベルリンの各地から境界封鎖を目撃した市民達から通報があいつぐ。
西ベルリン側では寝耳に水の緊急事態に市民から警察まで、大混乱に陥った。
東側からの侵略と受け取った人々もいたに違いない。しかし、東ドイツ側の軍隊は境界線近くには来ず、1km程後方に位置していた。その又後方にはソビエト軍の戦車隊も配置され、万が一の事態に備えていた。
ボリス達も東ドイツ側で、建設の進む鉄条網の取り付け作業や、境界の警備に当たる警官隊の様子等を取材した。
西ベルリン警察では、急遽警報が発令され13000人の警察部隊を召集。境界線の警備を開始した。
鉄条網による封鎖は、一斉に西ベルリンを取り囲む全域で開始され、午前中一杯で仕上げられた。夕方には西ベルリン市民、約3000人がブランデンブルグ門前に集まり、封鎖に反対するデモを開始した。中でも過激なグループは、鉄条網を撤去しようとしたため、東ドイツ側から放水車による放水を浴びせられたり、小競り合いが起こった。
しかし、結局軍事行動や武力衝突は起こらなかった。
東ドイツ市民の中には急いで亡命しようとする人々が、鉄条網をかいくぐったり柵沿いのビルから西側へ飛び下りたりして亡命行為は続いた。
8月14日には、東ドイツ側で武装した民兵がブランデンブルグ門前に整列し、西側ににらみをきかせた。15日の午後4時頃には、境界警備にあたっていた東ドイツの警官コンラート・シューマン(19)が仲間の目を盗んで鉄条網を飛び越えた。彼は、後を立たない亡命に号を煮やした東ドイツが、鉄条網では不足としてコンクリート壁の建設を始めようとしていたのを知り、亡命するなら今しかないと機関銃をかなぐり捨てて鉄条網を越えた。
コンクリート壁の建設は午後6時頃から始まった。ベルリンの壁の建設は西ベルリン市民にとっては、大戦中の強制収容所の壁を思い起こさせたに違いない。
16日には、西ベルリンの市庁舎前で30万人の市民による抗議集会が開かれた。
不安に押しつぶされそうな西ドイツ市民は、手をこまねいていた米・英・仏に助けを求めた。ケネディはこれに答えて、米陸軍1500人の部隊を8月19日、陸路で西ドイツから西ベルリンへ派遣した。東ドイツ領内を突っ切る形でしか西ベルリンには入れないが、
これが邪魔されるようだと米ソの緊張は一気に高まる恐れがあった。しかし、ソ連軍も東ドイツの国家人民軍もこれには一切手出しをしなかった。米軍は無事西ベルリンに到着し、西ベルリン市民の熱狂的歓迎に迎えられた。
治安は守られていたが、ベルリンの壁の建設は止まらなかった。
22日には亡命しようとして59歳の女性が鉄条網脇のビル4階から西側に向けて飛び下り、あやまってマットレスを手に待ち受ける人々の横に落下し、死亡。
24日には、東西ベルリンの間を流れる川、シュプレー川を泳いで渡ろうとした24歳の男性が、警備隊により射殺され最初の犠牲者となった。
ベルリンの壁は、東西ベルリンの間に作られたのではなく、西ベルリン全体を取り囲むようにして一周165kmの長さで作られた。
ボリス達は一週間程東ベルリンに滞在し、壁構築の模様を取材した。
蚤の市やスピードスターのパーツ探しはおあずけとなってしまった。
1961年のF1グランプリはレギュレーションの変更が行われ、排気量が1300〜1500ccまでとなり過給器式は禁止となった。これはF2エンジンと同じ規定の為、ポルシェは昨年シリーズチャンピオンを獲得したF2マシンに改良を加え、F1に参加する事にした。しかし、思ったような成績は残せず、第四戦フランスグランプリで唯一、ダン・ガーニーのドライブで2位に入賞しただけだ。シリーズチャンピオンの座は8戦中5戦を制したフェラーリがコンストラクター、その中の2戦で優勝したフィル・ヒルが初のドライバーズ・タイトルを手にした。
ポルシェはやはりF1専用の新エンジンが必要と考え、新たに8気筒の開発に取りかかった。そうして出来上がったのがF1マシン、タイプ804だ。エンジン形式は753、1494ccのフラット8で180ps/9200rpm、15.6kg-m/7200rpm、最高速は290km/h。
ボディの全幅を狭くする為、極端なショートストロークエンジンで、ボア、ストロークは66パイ×54.6mmでボディ幅は810mm、車重は452kgだった。
1962年シーズン、ダン・ガーニーとジョー・ボニエのドライブで、9戦中7つのグランプリに参戦し、ダン・ガーニーが第四戦フランスグランプリで優勝を遂げた。その他は3、5、6、7位が各一回づつ、9位が5回という成績に終わった。ポルシェはこれにより、F1はコストが掛かり過ぎる事と得るものが少ないと言う理由でこの年を最後にF1から撤退を決めた。タイプ804のF1マシンは、全部で4台が製作されただけで姿を消してしまう。
