
第十五話 1957年スプートニク・ショック
1957年、ポルシェ550Aスパイダー1500RSは、シャーシーとサスペンションに改良が加えられ1500RSKへと発展する。
RSKのKは、フロントサスペンションのキャリア・チューブの断面がKの文字に似ている事から付けられたと言う。
大幅な軽量化に成功したシャーシーは718型と呼ばれ、F2カーにも流用出来る様、ステアリング・ボックスがセンターに配された。
この718RSKスパイダーはこの年のル・マンに出場するが、レースなかばの12時間目に130周目を周回中、事故でリタイアに終わっている。このレースでは、550AスパイダーRSが総合8位でクラス優勝に輝いた。

ベルギーのリエージュからフランス、イタリア、ドイツとアルプスの山々を横断し、3230マイルもの長距離を走破する過酷なレース、リエージュ-ローマ-リエージュラリーでも、ポルシェは総合優勝を勝ち取り、ミッレミリア(1000マイル)、ニュルブルクリンク1000kmでも1600ccのクラス優勝を獲得する。
そしてこの年、ポルシェは初めてフォーミュラー・グランプリに挑戦した。
F2が1.5Lになったことで、ポルシェはRSKスパイダーを、シングルシーターに改造して地元ドイツグランプリに出場した。ポルシェはこのグランプリでいきなり優勝を果たし、性能の高さをアピールした。
1957年10月4日、ソ連は世界に大きな衝撃を与える難事業に成功した。
いわゆる”スプートニク・ショック”である。
人類史上初となる人工衛星”スプートニク1号”の打上げに成功したのだ。ソ連科学アカデミーが開発したスプートニク1号は、直径わずか58cmの球形をした人工衛星で、二段式のA型ロケットに詰まれ、当時世界最大規模を誇っていたカザフ共和国のバイコヌール宇宙基地のチュラタム射場から打ち上げられた。
そして予定通り地球の周回軌道に乗り、世界初の人工衛星として1958年1月4日まで3ヶ月あまり、科学実験室として稼動した。スプートニクには2台の無線送信機が積まれており、二つの異なる電波を地球に向けて送り続けた。この電波を受信する事により、地球では電離層の観測と、電波の伝播実験が行われた。
折しも、第二次世界大戦以後、世界はアメリカ・西ヨーロッパを中心とする民主主義陣営と、ソ連・東欧を中心とする社会主義陣営の冷戦時代へと突入していた。そこで、50年代初頭からアメリカとソ連の両大国で進められていた宇宙開発競争で、ソ連がアメリカを一歩出し抜いて宇宙へ一番乗りを果たした事は、ソビエト国民にとって大きな喜びだった。まさに、スプートニクはソ連の国家的威信と、宇宙時代の覇権を賭けた大事業の成功だったのだ。
モスクワの街中はお祭り騒ぎとなり、ボリスも報道班の手伝いであちこち取材に駆け回らされた。
更にソ連はその一月後の11月3日、ライカ犬を乗せたスプートニク2号を打ち上げ、生命を宇宙空間に初めて送りだす事にも成功する。
ライカ犬とは、カメラのライカとは全く関係が無く、ロシアで猟犬として飼われていた犬種で、忍耐力に長けていると言われる。ライカ犬のライカはロシア語の「ラーチャ」(吠える)からきている。
スプートニク2号で、地球上の生命として初めて宇宙空間へ飛び出したライカ犬は、ロシア語で ”巻き毛”を意味する「クドリャフカ」という名の牝犬だった。体重は5kg程の小さな犬で、当時ソ連科学アカデミーで宇宙犬として育てられていた二十数頭の中の一頭だった。ソ連では来る有人宇宙飛行に備え、これらの犬を使って生物実験を繰り返していたのだ。数週間狭い気密室に閉じ込めたり、ロケットで地上200kmまで打ち上げ、そこからパラシュートで降下させたり、様々な環境適応能力の実験を行ったりしていた。
「クドリャフカ」はそんな中から選ばれたエリート犬だった。
彼女は、脈拍、呼吸、心拍数、脳波、血圧等を計る様々な身体機能計測器機を体に取り付けられ、特製の気密服を着せられて、ほとんど身動きも出来ないアルミ製の小さな与圧室に押し込まれた。地球上生命初の大気圏脱出の名誉と栄光が、彼女に分かるはずも無く、クドリャフカの乗ったロケットは時速28800kmまで加速して行く。
クドリャフカはかつて誰も味わった事のない高速を体験し、想像を絶する重力に耐えて宇宙空間に投げ出された。
スプートニク2号は予定通り地球の周回軌道に乗り、クドリャフカの生存を伝える生態データも受信された。彼女は無事宇宙空間への脱出に成功したのだ。
地球上で彼女の生態データをモニターするソ連の科学者達は、実験の成功を大いに喜んだ。
しかし、クドリャフカには地球に戻る術は何一つ与えられていなかった。そればかりか、生命維持の為に与えられた餌と酸素はわずか一週間分あまり….
スプートニク2号はその後、162日間に渡って地球の周回を続け、燃料切れと共に高度を下げ、翌年1958年4月14日午前、大気圏に再突入、カリブ海小アンチル諸島、ブラジル、大西洋上空を東南方向に通過する線上に落下した。
地球上生命初の宇宙空間飛行という快挙を成し遂げたライカ犬”クドリャフカ”は、誰からもその栄誉を称えられる事無く、御褒美の骨付き肉を与えられるでも無く、ただチューブに詰まったわずかばかりの流動食をなめながら、漆黒の宇宙でただ一人、見守るものも無く息を引き取った。
その後何百周も地球の周りをぐるぐると回り続けた挙げ句、大気圏に再突入し地球に落下したのだ。しかし、彼女の亡きがらが無事回収され、生まれ故郷のロシアの土に還れたのかどうかは、誰一人として知るものは無い。
ガガーリンより4年も早く宇宙へ旅した巻き毛の彼女は、スプートニクにたった一つ取り付けられた小さな窓から、暗黒の宇宙に浮かぶ母なる地球の青く輝く美しい姿を、一目でも見る事が出来たのだろうか........
1957年のF1では、前年度チャンピオンのファンジオがフェラーリからマセラティに移籍し、イギリスのバンウォールが頭角を表した。逆にフェラーリが不振に陥り、1勝も挙げる事が出来ずに終わった年だった。
ファンジオは軽量のマセラティ250Fを駆って、1戦アルゼンチン、2戦モナコ、4戦フランス、そして超人的ドライビングを見せた6戦ドイツと4つのグランプリを制し、4年連続5度目のF1世界選手権チャンピオンに輝いた。この記録はそれ以後45年間追い付かれる事の無い偉大な金字塔となり、2002年ようやくマイケル・シューマッハがタイ記録を打ち立てた。
ファンジオは、1958年もマセラティでいくつかのレースに出場するが、シーズンなかばの7月6日、第六戦フランスGPを最後に静かに引退した。
F1世界選手権グランプリ出走回数51回、その内フロントローからスタート出来なかったのはわずかに2回、29回のポールポジション、23回のファステストラップ、当時最多の24勝を挙げ、2位10回、3位1回、4位6回と言う輝かしい記録を残した。そして何よりもファンジオは、レース仲間から愛され、尊敬され、多くの観客の心に鮮烈な感動を残してサーキットを去っていった。ファンジオ、47歳の夏だった。
1958年5月、ボリスとクラウディアは、友人達に祝福されつつ結婚式を挙げた。
式のフィナーレでは、缶からを一杯付けたスピードスターに花嫁姿のクラウディアを抱き上げて乗せ、仲間達に見送られながら南フランスへと新婚旅行に旅立った。
ちょうどスピードスターを買った時の逆ルートを、今回は二人で走って行った。
旅行から帰るとすぐに、ボリスはル・マンの取材に出かけた。
1958年のル・マンには、5台のポルシェが出場していた。718RSKスパイダーが3台と550A RSが2台。
718RSKの1台は9時間が過ぎた56周目に事故を起こしリタイアしたが、残る4台は皆24時間を走り抜き、ジャン・べーラとハンス・へルマン駆る1587ccエンジンを積む718RSKが総合3位で2Lクラス優勝。エドガー・バルト、ポール・フレール駆る1498ccの718RSKが総合4位、1.5Lクラス優勝、バロン・カールとヘルベルト・リンゲがドライブする550A RSが総合5位、もう一台の550A RSが総合10位に入った。1.5Lクラスでは1、2、3フィニッシュという快挙だった。
総合優勝は、2953ccスクーデリア・フェラーリから参加した、フェラーリ250 TR58だった。
ポルシェはこの年、タルガフローリオ、ミッレミリア、セブリング12時間、ニュルブルクリンク1000km等でクラス優勝している。
それからF2では、昨年のドイツに引き続きフランス・グランプリに参加し、718RSKが優勝を遂げた。
市販車では、356Aの1300ccエンジンが’57年の9月から無くなり、1600と1600S、GTカレラは1500のデラックスとGTの2バージョンがごく少数作られた。デラックスは100ps/6200rpmで、ボディをプラスティック窓等で軽量化したGTにはチューンした110ps/6400rpmのエンジンが乗せられた。
ボディスタイルもクーペ、カブリオレ、スピードスターの3種からスピードスターが無くなり、代わりにコンバーティブルDが作られるようになった。コンバーティブルDのDは、ボディメーカー、ドラウツ製である事を示している。
続く1959年、356Aはフロントマスクに改良が加えられ、356Bへと進化する。
ヘッドランプの位置が高くなり、それに伴ってバンパーの位置も高くされた。エンジン・バリエーションには新たに1600スーパー90が加えられた。スーパー90エンジンは、ソレックスの40pjjキャブレターと組み合わされ、9.0の高圧縮比から90ps/5500rpm、12.3kg―m/4300rpmを発生した。最高速は185km/hをマークした。
1959年の成績は、お馴染みとなったリエージュ〜ローマ〜リエージュラリーで総合優勝。タルガフローリオ、ミッレミリア、セブリング12時間、ニュルブルクリンク1000kmの各レースでクラス優勝に輝いている。
しかし、この年のル・マンは最悪だった。
2台出走した1588ccエンジンを積んだ718RSKは、6時間目に一台がイグニッショントラブルでリタイア、もう一台は14時間目にクラッチトラブルでリタイア。
3台出走した1498ccエンジンを積んだ718RSKは、14時間目にギアボックス、15時間、20時間目にエンジントラブルで3台ともリタイア。
1台だけ出場の550RSスパイダーは、20時間目にクラッチトラブルでリタイア、と6台全てがリタイアに終わっている。1951年から1.1L、1.5L、S2000と徐々にステップアップしながら続いてきたクラス優勝も、この年で途切れてしまった。
1960年、718RSKはRS60スパイダーへと発展を遂げた。一番の変更点は、リアサスペンションがこれまでのフォルクスワーゲンの名残りとも言えるスウィング・アクスルとトーションバー・スプリングによるものから、ダブル・ウィッシュボーンとコイル・スプリングになり、ダブル・ジョイントのドライブシャフトと相まって操縦性が格段に良くなった。356B 1600GSカレラは、戦前ポルシェ設計事務所でエンジニアとして働いていたカルロ・アバルトの協力を得て、イタリアのザガートにボディの制作が発注された。
アルファロメオのティーポ33などを手掛けたフランコ・スカリオーネのデザインで、ザガートらしいアルミ製ボディが作られた。これに356Bカレラと同じ4カムエンジンが、115ps、128ps、135psの3種類の異なるチューンで乗せられた。
わずか20数台作られたこれらのマシンは、「カレラ・アバルト」と言う名が付けられた。このカレラ・アバルトは、アルミ製の軽量ボディを活かし、最高速220kmをマークした。初レースのタルガフローリオでクラス優勝をとげ、ル・マンでもポルシェのレーシング・スポーツRS60を凌ぐ成績を残している。ル・マンでは、356B 1600GS/4 カレラ・アバルトGTLが総合10位でGT 1.6Lクラス優勝。1498ccエンジンの718 RS 60が総合11位に入った。こうしてポルシェは、この他にもミッレミリア、セブリング12時間、ニュルブルクリンク1000km等でクラス優勝を飾り、ミッレミリアとニュルブルクリンク1000kmでは’57年から 4連勝、タルガフローリオとセブリング12時間でも’58年から3連勝を達成し、1600ccクラスでは敵無しの状態が築かれた。ポルシェはこの年、コンストラクターズ・チャンピオンシップで2位を獲得。
初めてのシリーズ参戦となったF2でも、ジョー・ボニエ、グラハム・ヒル、スターリング・モスらのドライブによってチャンピオンシップを獲得した。1.5LのF2マシンは、カレラと同じ547/3型エンジンに6段ギア・ボックスが装備され、150psを発生した。
この年の年末、あと一週間でクリスマスという頃、ボリスとクラウディアに待望の赤ん坊が誕生した。体重4170gという病院一大きい元気な男の子で、名前をアレクサンドル、愛称・サーシャと名づけた。
