傷だらけのライカタイトル

第十三話 1955年リトルバスタードの死                
 
 ル・マンで思わぬスクープを手にしたボリスだったが、レース取材ばかり続けている訳にも行かなくなった。ボリスはスポーツだけで無く、エンターテイメントも担当していた。

1955年の後半、ハリウッドから話題の映画の情報がやって来た。
 ワーナーブラザース製作の新作映画が全米で大ヒットしているというものだった。

 ジョン・スタインベックの原作でエリア・カザン監督、新人俳優が主役を勤めるという。
この新人の演技が高く評価され、大ブレークしているらしい。

新人の名は「ジェームス・ディーン」。ポルシェ356スピードスターを乗り回し、アマチュアレースに参加して良い成績を収めていると言う。今回、550スパイダー1500RSを購入してレースに出場する予定だと言う。映画のタイトルは「エデンの東」。

 ボリスはこの資料を見て、「ジェームス・ディーン」なる俳優に少し興味を抱いた。
 24歳の新人俳優が、出たばかりのスパイダーを買ってレースだなんて、さすがにハリウッドスターは景気がいいなぁ….そんな事を考えていた。

すると、映画のリリースよりも早く、一枚の写真と共に、「ジェームス・ディーン、交通事故で死亡!」というニュースが飛び込んで来た。1955年9月30日のことだった。添付写真は、事故で滅茶苦茶になったスパイダーの悲惨な姿だった。あまりに呆気無い、スターの死。

 ジェームス・ディーンは、3本目の映画「ジャイアンツ」をクランクアップした直後、サンフランシスコの南に位置する海沿いの街、サリナスで10月1日に行われるレースに出場する為、ロサンゼルスから、わずか9日前の9月21日に手に入れたばかりの’54年式550スパイダーに友人のメカニックを乗せてドライブ中だった。車体には当時噂されていた550スパイダーのトップスピード、130マイルがゼッケンとして書き込まれており、「ジャイアンツ」の撮影中に付けられたニックネーム、”リトルバスタード(小さなならず者)”という文字もリアのエンジンフードに刻まれていた。
 ジミーは新品のエンジンの慣らし運転も兼ねて、フリーウェイ99号線から466号線へとスパイダーを走らせた。事故を起こす2時間程前には、スピード違反でポリスに捕まり、反則切符を貰っている。そして日も暮れかけて来た午後5時45分頃、466号線と41号線が斜めに交わる交差点で、左折して来た大学生が運転するフォードと激突。ジミーは24歳と7ヶ月の短い生涯を終え、帰らぬ人となった。

同乗していたメカニックのラルフは、車外に投げ出され重傷を負ったが一命は取り留め、追突した大学生は奇跡的に無傷で済んだ。アフレコ(台詞の後付け)の済んでない「ジャイアンツ」は、、後日、俳優仲間のニック・アダムスが一部その声を代わりに吹き込んだ。
 ジミーの550スパイダーは、シャーシーナンバー550-0055、55台目に作られたマシンで、アメリカに輸入された2台目のスパイダーだった。

 ボリスはその後暫くしてから、ヨーロッパ取材の折、彼が出演した映画を見た。
「エデンの東」「理由なき反抗」「ジャイアンツ」、そのどれもが孤独にもがき苦しみながらもなんとか必死に生きて行こうとするひたむきな男の姿を演じており、ボリスは胸を打たれた。生きてスパイダーを走らせていたら、きっと良い成績を残しただろうに…..

 いや、それ以上に良い映画をもっと沢山残しただろう。その事が、とても残念に思えた。


 1955年は他にも大きな事故が相次いだ。

F1で’52、53とフェラーリを駆って二度のチャンピオンに輝いたアルベルト・アスカーリが、モナコGPでマシンごと海に飛び込むという有名なアクシデントに遭遇、そのわずか一週間後、モンツァでフェラーリのテスト中事故死した。彼が事故を起こしたコーナーには、後日シケインが作られアスカーリ・シケインの名が付けられている。

インディ500でも3連覇を目指したチャンピオンのブコビッチが事故死した。モータースポーツそのものが危機に立たされた年でもあった。それまでの、レースに事故は付き物と言う考えもこの年を境に改められ、レースでの安全性が真剣に考えられるようになった。

porsche356a

 1955年10月、ポルシェは市販車356に更に手を加えたニューモデルを発表した。

356Aタイプがそれだ。356Aは、フロントガラスがV字型の折れ曲がったベントウィンドウから一定の曲線を持つラウンド・ウィンドウになり、両サイドのドア下にクッション用のラバーモールが付いた。フロントウィンカーはホーングリルと一体になり、フロントフードのハンドルも大きくなり、ポルシェのエンブレムが埋め込まれるようになった。

 ポルシェのエンブレムは、本社の在るシュツッツガルト市の紋章を真ん中にアレンジしたものが作られた。Stuttとは牝馬、Gartとは園を意味しており、シュツッツガルトに10世紀前半、シュワーベン公へルマン1世の養馬場があった事から馬がシンボルになったと言われている。左上と右下に刻まれているのは鹿の角で、シュツッツガルトの在るヴェルテンブルク州の紋章だ。赤と黒のストライプは紋章学から見ると、赤は騎士の祖国愛や勝利を表し、黒は決断力、冷静な意志を現しているという。

cabarino

フェラーリの跳ね馬、「カバリーノ・ランパンテ」も元をただすとシュツッツガルトの紋章に行き当たる。

 1923年の夏、イタリアのバラッカ伯爵夫妻はラベンナで開かれたレースを観戦し、優勝したドライバーを紹介された。そのレーサーこそ、若き日のエンツォ・フェラーリ(25歳)だった。

伯爵夫妻の息子は第一次世界大戦の撃墜王、フランチェスカ・バラッカで、1916年に撃墜したドイツ軍の戦闘機に描かれていた跳ね馬のマークが気に入り、自分の部隊の紋章にしたという。バラッカに敗れたドイツ人パイロットが、シュツッツガルトの出身だったのだ。その後、フランチェスカは戦死してしまうが、伯爵夫人は愛する息子の形見とも言うべきその由緒在る紋章を、若きエンツォにプレゼントした。

エンツォは1929年にフェラーリを創立し、1932年からカバリーノ・ランパンテをフェラーリのエンブレムとしてつけている。モータースポーツ界の両雄、ポルシェとフェラーリが、同じ起源を持つ荒馬の紋章を掲げて戦っている事は大変興味深い真実だ。

 356Aのエンジンバリエーションは、従来の1300に新設計の1600とそれぞれのスポーツタイプ1300S、1600Sが加わり、547型フールマン・エンジンを積む1500GS(Grand Sport)がカレラの名を冠して加わった。

カレラは、もちろん’52年、’53年と連続してスパイダーがクラス優勝を飾ったカレラ・パナメリカーナ・メキシコでの活躍を記念して付けられた名で、この356 A 1500GSカレラ以降、ポルシェでも市販車ベースの高性能スポーツ・バージョンにのみ与えられる事になった特別の称号だ。

カレラやレン・シュポルトといった、レース出場を念頭においたラインナップをそろえる所が、ポルシェの、単なる形ばかりのスポーツカー・メーカーとは異なる大切な部分で、ポルシェファンに強くアピールする処でもあろう。ポルシェはレースで培ったノウハウを、確実に市販車に反映させ、より快適で安全な車作りに役立てているのである。そして、ただ速いだけで無く、運転して楽しい車、速く走らせる事、乗りこなす事に快感さえ感じる車作りを目指しているのである。

 

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第十四話につづく