
第十二話 1955年悲しみのル・マン
メルセデスは翌1955年も無敵だった。
ファンジオはF1で4勝を挙げ2年連続3度目の世界チャンピオンに輝き、若きチームメイト、スターリング・モスも第六戦イギリスGPで1勝を挙げ、メルセデスは2年連続のシリーズチャンピオンを獲得する。
メルセデスは、F1グランプリだけで無く、W196の公道レース用バージョンとも言えるピュアレーシング・マシン300SLRを開発し、フォーミュラー・カー・グランプリと並ぶ格式を持つ「世界スポーツカー選手権」にも活躍の場を広げた。
300SLRはスポーツ・ライヒト・レンワーゲンの略で、超軽量レーシングマシンを意味していた。エンジンは、300SLの直6SOHCに対しW196譲りの直8DOHCを基に、2.5Lから3Lへと大きくスープアップされていた。これによりW196Rの290psより更に強力な310psの最高出力が出された。モデルコードW196Sと呼ばれた300SLRは、他にもユニークな機構を備え付けていた。それは、ブレーキ・フラップと呼ばれるもので、運転席の後方、後部ボンネットとの間に手動式のエア・ブレーキが取り付けられていた。ドライバーはフットブレーキだけでは足りないような急ブレーキのポイントで、フラップを操作し油圧で制御されたフラップ板がポップアップして空気抵抗によりブレーキングを助けるというものだ。300SLRは出場するレースごとにいくつか仕様の異なるものが作られ、初戦のミッレミリアにはコー・ドライバーが乗り込める様、二人乗りでウインド・シールドの高いものが用意された。この車はスターリング・モスのドライブで見事優勝を飾り、メルセデスは’31年のカラッチオラ以来、14年ぶりのミッレミリア優勝を獲得する(2位も300SLR)。
続くアイフェルレンネン(1、2、4位)と、スウェーデン・グランプリではファンジオが優勝し、最高の状態で遂にル・マンを迎えた。
1951年以降毎年ル・マンを取材しているボリスは、メルセデスのSLRとともに、ポルシェ550スパイダーにも大変興味をそそられていた。乾燥重量550kgという超軽量なボディに低重心のバランス良い車体と高出力で安定したエンジン。小排気量ながら2000cc〜4500ccの車を向こうに回してコーナーリングでインを刺し、抜き去って行く小意気な走りは、見るものに爽快感さえ与えた。1500RSは、1955年のル・マンにおいても、並みいる大排気量車を相手に総合で4、5、6位を獲得し、もちろんクラス優勝も勝ち得ている。
しかし、この年のル・マンは悲しい出来事が起こった。
6月11日土曜日、レースが始まって3時間目の午後6時28分、ボリスがグランドスタンドでライカを構えていた時だった。
トップを行くマイク・ホーソーンの駆るジャガーDタイプが周回遅れのオースティン・ヒーレー100Sをグランドスタンド前の直線で交わした後、ピットインしようとして減速した時に起こった。ヒーレーをドライブしていたランス・マックリンは慌てて避けようと左側に進路を変えた。そこに後方からピエール・ルヴェーの駆るメルセデス300SLRがトップ・スピードで追突、乗り上げて宙を舞い、サイドフェンスに激突した。大破した車体は、2転3転し85ヤードも空を飛んだ。バラバラになったエンジンやボディーパーツが観客席に飛び込み、逃げまどう人々をなぎ倒した。ボリスはズミクロン35mmの広角レンズでその事故を連写した。
SLRのメインフレームはサイドフェンスの上に仰向けに落下し炎を上げた。グランドスタンドは地獄と化した。火災は直ぐ消し止められたが、辺り一面なぎ倒された人々が横たわっていた。
観客82人が死亡76人が重軽傷を追うモータースポーツ史上、最大の大惨事となった。
ドライバーのルヴェーも帰らぬ人となった。
事故を知ったシュツッツガルトのダイムラーベンツ本社では早速トップ会談が行われ、残る二台のメルセデスのレース中断を決めた。本社からの連絡を受けたメルセデスのチーム監督、アルフレート・ノイバウアは苦渋の決断でリタイアを指示した。6月12日午前1時45分の事だった。
この時点で残るメルセデスの2台は1位と3位を走行していた。その一方をドライブしていたのが、ファン・マニュエル・ファンジオと無冠の帝王スターリング・モスだ。無念のメルセデスチームは、夜明け前にサルテサーキットを後にした。
ル・マンにスリー・ポインテッド・スターが再びその勇姿を見せたのはそれから34年も後の1989年で、復帰戦を1、2フィニッシュで飾っている。
1955年のル・マンは、事故のきっかけを作ったマイク・ホーソーンの駆るジャガーDタイプが、307周4135.380kmの新記録を樹立して優勝を遂げた。
ジャガーは1951、53年に続き3度目のル・マン優勝を飾り、この後1956、57年と3連破し、黄金時代を築いて行く。
しかし、ル・マンの大事故は社会に大きな影響を及ぼした。自動車レースは危険だと社会の批判が高まり、この後、フランス、ドイツ、スイス、スペインの4つのグランプリが中止となり、スイスでは永久にモータースポーツイベントの禁止が決定された。
メルセデスは1955年シーズン終盤、コンストラクターズ・ポイントでフェラーリに大きく水をあけられていた。しかし、最後の2戦、ツーリスト・トロフィー(1〜3位独占)とタルガフローリオ(1、2、4位)で、スターリング・モスとファン・マニュエル・ファンジオが相次いで1、2フィニッシュを決め、劇的な逆転劇を演じメルセデスにコンストラクターズ・チャンピオンの栄冠をもたらした。
52年の復帰以来、4年間続いたシルバーアローの怒濤の快進撃も、このタルガフローリオを最後に見れなくなってしまう。
ダイムラーベンツ社は、当面の間、全てのレース活動から撤退する事を発表した。
天才設計技師ルドルフ・ウーレンハウトの生み出した300SLRは、1954〜55年の2年間で計9台が製作された。その中の一台はガルウイング・ドアを持つウーレンハウトの個人用クーペボディだ。
圧倒的速さを持ちながら悲劇のマシンとなった300SLRは、数々の伝説を残し、わずか二年でサーキットからその姿を消した。