
第十話 1952年スリーポインテッド・スター復活
52年の356の活躍は華々しく、世界各地のレースで良い成績を残している。ドイツのスポーツカー選手権1100ccクラス優勝、イタリアではGT選手権1500ccクラスも制している。イタリアで戦前から行われてきた権威有るレース、ミッレミリアや公道を使って行われるハイスピードレースとして1950年からメキシコで始まったカレラ・パナメリカーナ・メキシコでも356はクラス優勝を勝ち取っている。2年目となったル・マンには3台の356 SLが参加し、レース途中で2台を失ったものの、ヴィエとムッシュの駆る356は1951年に続き、総合11位で2年連続クラスウィンを達成した。
1951年のル・マン以来、ボリスは熱狂的なポルシェファンとなって、ヨーロッパ各地で行われるレースに取材と言う名目で出かけて行ってはポルシェの活躍を見守っていた。
自分もポルシェを手に入れてドライブしたいと思ったが、スターリン体制下のソ連ではそれも儚い夢だった。
1952年、ポルシェと同じく、ドイツ・シュツッツガルトに本拠を構えるダイムラーベンツが、大戦後始めてレースに復帰を果たした。ダイムラー・ベンツ社は大戦により、多大な痛手を被っていた。大戦中、ナチスの集配用トラックやロケット部品、ボート、航空機、戦車などの軍需品を生産していたドイツ各地のベンツの工場は、その70〜100%が破壊されていた。
ダイムラーベンツ、ガゲナウ工場等は1944年9月の米軍機の攻撃により、高性能爆弾八百個、焼夷弾三万発が落とされ、廃虚と化している。本社工場ウンターテュルクハイム、マリエンフェルデ、ジンデルフィンゲンの各工場もほとんどが壊滅状態だった。ダイムラーベンツ従業員の戦死者の数は、2483人、行方不明者816人、5億マルク相当の資産が灰となった。ヒトラーの隆盛と共に栄華を極めたベンツは、彼の死と共にどん底まで落ち込んだのである。しかし、1946年、航空機エンジン部門のトップだったアルベルト・フリードリヒとその部下達によって奇跡の復興が開始される。戦前の主力車、170Vモデルの生産が再開され、アメリカの占領軍が最初の大量発注者となった。1947年、年間わずか381台だった生産台数も49年には、月産1000台まで回復した。戦後の累計生産台数が10万台に達した1952年、ベンツは二人乗りのスポーツカー、300SLのプロトタイプをデビューさせた。

1952年5月2日、イタリア伝統の公道レース、ミッレミリアに初めて姿を見せた300SLは、先進的な空力デザインボディーに特徴的なガルウィングドアを装備していた。軽量で頑丈な鋼管スペースフレームの採用によりサイドシルが通常のドア開口部より高くなってしまい、横開きのドアが付けられなくなり、必然的に出て来たのがガルウィング・スタイルのドアだった。エンジンは市販車の300Sの水冷直6、SOHC、2996ccをギリギリまでチューンした171psエンジンが、ボンネットを低く押さえる為、45度傾斜して搭載された。アルミ製軽量ボディが被せられ、総重量は900kgに押さえられている。300SLプロトタイプは、デビュー戦のミッレミリアで2位に入り、続くル・マンではいきなり総合優勝と2位を獲得、1、2フィニッシュを決めた。この他ベルリン・グランプリで優勝、ニュルブルクリンクで1位から4位を独占、カレラ・パナメリカーナ・メキシコでも1、2フィニッシュと、5戦中4戦を優勝で飾る大活躍を見せた。
1952、1953年の世界選手権は、F1では無く自然吸気の2000cc F2カーで争われた。ここでは、DOHC直4、185psのフェラーリ500を駆る、アルベルト・アスカーリが圧倒的強さを発揮した。
1952年、第一戦のスイスGPこそチームメイトのP.タルッフィに優勝を奪われたものの、第二戦のインディを別として、第三戦から最終第八戦まで、6戦連勝でチャンピオンを決めた。この6戦に限っていえば、ポールポジション5回、ファステストラップ5回という他を寄せつけない圧倒的な速さだった。前年度チャンピオンのファンジオは、シーズン開幕直前のモンツァで行われたマイナーレース、アウトドローモGP(非選手権GP)で2周目にクラッシュ、首の骨を折る重傷で、シーズンを丸まる棒に振ってしまった。
翌1953年、ファンジオはマセラティのドライバーとして選手権復帰を果たすが、アスカーリを筆頭とするフェラーリ勢の速さの前になす術も無かった。そして迎えた最終イタリアGP、ファンジオはアスカーリとファリーナのフェラーリ勢と激烈なトップ争いを演じた。アスカーリ、トップで迎えたファイナルラップ。アスカーリは周回遅れのマリモン(マセラティ)に追突されリタイア。ファリーナもこの混乱に巻き込まれるが、ファンジオはすんでの処でこれを交わし、劇的なファイナルラップでの逆転優勝を勝ち取った。これにより一糸報いたファンジオは、マセラティに地元グランプリで記念すべきF1初勝利をプレゼントした。
シリーズチャンピオンは、5勝をマークしたアスカーリが2年連続で獲得した。
1953年、ソビエト連邦を31年に渡って独裁してきたスターリンが3月5日、73歳で死亡した。スターリン=「鋼鉄の男」と呼ばれた、本名:ヨシフ・ビサリオノヴィッチ・ジュガシビリも年には勝てなかったのだ。体勢に大きな変化は見られなかったが、人々の心の中にはスターリンの強権政治から解放された安堵のにおいが感じられた。ボリスはポルシェを手に入れる事を決意する。新車での購入はとても無理だったが、取材で出向くヨーロッパ各地で中古の356を物色し始めた。356は、各地で行われるヒルクライムやジムカーナ、ラリー等にも多数参加しており、良さそうなものを見かけると、オーナーを探しては売る気が無いか尋ねてみた。しかし、程度の良いものは馬鹿高いし買えそうなものは程度が悪かった。焦って変なものを掴んでも仕方が無いので、じっくりと時間をかけて探す事にした。その間に、貯金も溜めなければならなかった。
1953年、ポルシェは356をよりコンペティティブにしたニュー・マシンを投入した。
550スパイダーである。ポルシェはこの年のル・マンに、チューブラー・ラダー・フレームにアルミ製の軽量2シーター・オープンボディを乗せ、その上にハードトップを装着。チューンした356-1500Sのエンジンをミッドシップにレイアウトした純血のレーサーを2台エントリーした。パフォーマンスは格段に向上し、最高出力は98馬力、2台とも完走を果たし、総合で15、16位を獲得、クラス優勝を成し遂げた。