第九話 1951年感動のル・マン24時間


               
 ボリスは、ポルシェ356が発表されたジュネーブショーから2年が経った1951年の初夏、モータースポーツ界の一大イベント、ル・マン24時間耐久レースにポルシェ356がエントリーしている事を知った。それまでも、356の活躍には注目していた。1950年にスウェーデンで行われたミッドナイト・サンラリーやオーストリアン・アルパイン・トライアルで1100ccクラス優勝を遂げた記事や、1951年のツール・ド・フランスやリエージュ・ローマ・リエージュといったメジャーレースでも、クラス・ウィンを飾った雑誌の記事などをスクラップしていた。しかし、あのル・マンにポルシェがエントリーした事を知ったボリスは、矢も楯もたまらなくなっていた。その日の内にル・マンの取材申請を作成し、翌日上司に掛け合った。希望はすんなりと通った。メジャーなレースと言う事もあり、呆気無い程簡単に出張が決まった。

 ボリスは、昨日の事のように覚えているジュネーブショーの会場で見たポルシェ356が、ミュルサンヌのコーナーを駆け抜ける姿を思った。排気量が小さいから、総合優勝は難しいだろうが、ル・マンは24時間もの長丁場だ。色々な角度から、じっくり356が見れると思うと、わくわくして来た。

「そうだ、写真も沢山撮ってこよう!カーレースの取材となったら、望遠レンズも必要だな。」ボリスの心は、既にサルテ・サーキットへと飛んでいた。

 ソビエト国内では入手が困難なライカの望遠レンズを手に入れる為、飛行機はフランクフルトでの乗り換え便にした。フランクフルトで6時間の乗り換えの間に、街まで出てレンズを探す。ホーバンホフ中央駅から歩いて、カイザー大通りのカメラ屋を片っ端から見て回る。ライカのカメラボディーや広角系のレンズは豊富にあるのだが、望遠レンズは数も少なく、中々いいのが見つからなかった。ずいぶんと歩き回った末、時間も押し迫って来た頃、ポールズ・プラッツに軒を並べる店の中に、赤く大きな目立つ文字で、Leicaのロゴ看板を見つけた。

 ショーウィンドウを覗くと、所狭しとライカが並んでいる。ボリスは流行る気持ちを押さえつつ、その店のガラス扉を押し開けた。神経質そうな黒ぶち眼鏡をかけた店員が、ボリスを一目見て、眉間にしわを寄せた。第二次大戦が終わって6年が経とうと言うのに、今だロシア人を気持ちよく思わない人がいる事を感じたが、ボリスは気づかない振りをして店に入り、中古交換レンズの並ぶショーウィンドウの前に腰をかがめた。商品の品揃えは、今まで見て来た中で一番だ。ライカ用の望遠レンズも5〜6本置いてある。90mmが3本に135mmが2本、手前に横に寝かされている一番長いレンズが200mmだ。

 ボリスは最初、一番望遠のテリート200mmレンズを見せてもらった。自分のライカ・ボディーに、スクリューマウントでねじ込んでみる。レンズを構えると、バランスが悪く、相当フロントヘビーになる。レンズの胴鏡が真鍮製の為、やたらと重い。このバランスで200mmの超望遠では手ぶれが心配だ。ボリスはもう少し短かめのエルマー135mmレンズを見せてもらった。今度はバランスもいい感じで、フォーカスも合わせやすい。レースで早い被写体を追うにはこちらの方が撮りやすそうだ。90mmも同じように扱いやすかったが、倍率で物足りなさを感じた。こうしてボリスは、エルマー135mmの二本のレンズを比べてみて、値段は少し高かったが、レンズ面が輝いて見える新し目の綺麗な方を買う事に決めた。黒ぶち眼鏡は愛想笑いを浮かべ、商品を梱包した。ボリスは急いで空港に戻り、パリ行の便に乗り込んだ。

 パリから電車でサルテ県のル・マン市に向かう。
 途中、線路と平行した道路にル・マンに向かうと思しきスポーツカーやオートバイの群れを見つけ、ボリスの胸も高鳴った。ル・マンの街は明日から一週間、全世界から集まってくる車好きのお祭り騒ぎの会場となるのだ。ボリスは列車の窓ガラス越しに2年前にジュネーブショーで見たポルシェ356の流麗な曲線を思い浮かべていた。

 翌日、ボリスは早い時間にサルテサーキットに向かった。
 ル・マンの街は既に24時間耐久レースの興奮に包まれており、街のあちこちに垂れ幕や看板が貼られ、市街を走り抜けるコースも整備が進んでいた。レースを見に来た観客も、早くから良い席を確保しようと早朝から思い思いの場所に陣取っていた。自然とボリスの足取りも早くなり、プレスセンターへと急いだ。パドックでは、気の早いチームがマシンを運び込み始めている。

 プレスセンターでエントリーリストやプレスカードを手に入れたボリスは、早速ピットに足を運んだ。ワークスで参戦するポルシェチームは、まだ来ていないようだった。ボリスは始めてのル・マン取材の為、早めにスタート地点と第一コーナーを見ておこうと思い、ダンロップコーナーからメインスタンドへ向かった。”トリビューン”と呼ばれるメインスタンドの入り口には、24時間レースの大きな看板が掲げられ、スタンド裏に建てられたテントでは、様々なレース関係の土産物を売る店などを周辺取材しながら、ライカで写真を撮って回った。一通り見て回ったところで、テントで売っているクロワッサンとカフェオレを買い、簡単な朝食を済ませた。ピットに戻ると、既にほとんどのチームがレースマシンの整備を始めていた。ボリスはお目当てのポルシェチームのピットを探した。

 暫く行くと、見覚えのある滑らかな曲線のマシンが見えて来た。2台並んだシルバーのマシンは、まぎれも無く二年前のジュネーブショーで一目惚れした、”ポルシェ356”だった。しかし、ピットに置いてあるゼッケン46と47の356は、前輪と後輪のタイヤがボディーと同じアルミの板で覆われていた。空気抵抗を考慮して、タイヤカバーが取り付けられていたのだ。

 ボリスは内心、「ちょっと不格好だな….」と思ったが、全長6kmもの長さのユノディエール・ストレートを持つサルテサーキットでは、こうした空力処理も必要なのか、と考え直した。

 ポルシェは初めてのル・マン挑戦に、シュツッツガルトで製作している最新型では無く、グミュントで製作した一つ前の型を持ち込んでいた。これは、シュツッツガルトモデルのボディーがスチール製で重量が重い事と、グミュントモデルの方が空気抵抗が少ない事に起因するようだ。その為、エントリーリストには、「356/4 SL(Super Light) Coupe」と書いてある。
 しかしエンジンは、レース・カテゴリーを意識してグミュント時代の1131ccでは無く、シュツッツガルトの最新型1086ccのフラット4で、グループカテゴリーは「S1.1」クラスに属する。

 ボリスはピット作業を丹念に撮影した。昨日手に入れた135mm望遠レンズも使いながら、356ル・マン使用の細部まで、ライカで写し撮っていた。

 この頃の356は、フロントウィンドウが平ガラスの分割式で、ワイパーの取り付け方も外側から内側に左右同時に閉じてくるタイプだった。後年、タイプAから付くフロントフードの取っ手にあるポルシェのシュツッツガルトマークも、この時は付いていなかった。

バンパーの形状もボディの前後下端に取り巻くようにつけられた”タッチバンパー”と呼ばれるものが付いており、ウィンカーの位置もヘッドライトより微妙に外側に付けられていた。サイドウィンドウには三角窓も付いていた。外観上見て取れる特徴はそんな所だった。

 ボリスが356の回りで写真を撮っている頃、ミューラーは他チームのマシンを研究しに行っていた。昨年(1950年)1、2フィニッシュを決めたイギリスのタルボラーゴは、今年も去年と同じT26GSを持ち込んでおり、完成度も高そうだ。排気量が4483ccもあり、クラスもS5.0という5リッターマシンのカテゴリーの為、356とは比べ様も無いが、空力的なデザインなどは参考になった。勢いを感じるのは昨年からル・マンに参加しているイギリスの雄、ジャガーだ。XK―120Sに手を加えたXK―120Cタイプを持ち込んで来ていた。ミューラーはそれらのマシンを見てはその特徴をメモに書き残していた。

 どこかのピットでエンジンの咆哮が上がった。それを合図とするかのように、あちこちのピットからマシンの雄叫びが上がる。いよいよプラクティスの開始だ。ポルシェのピットでも356のエンジンに火が入れられた。2台のマシンが呼応するようにエンジンをレーシングする。サーキット全体に緊張感が走る。メインスタンドをうめ尽くしたトリビューンが歓声を揚げる。ピットから次々とマシンが走り出る。ボリスは2台の356のピットアウトをライカに収めると、急いでメインスタンドの最上階を目指した。

 サーキット全体の興奮した雰囲気を写真に撮リたかったのだ。一周したマシンが戻って来る前にスタンドの一番上まで行き、高い所から観客とレースマシンを一枚の絵に収めたかった。マシンは矢のようなスピードでグランドスタンド前を駆け抜けて行く。ボリスは夢中でシャッターを押した。まだプラクティスなのに、興奮したボリスはマシンがスタンド前を通過する度シャッターを切った。そろそろ他の場所に移動しようかと思った頃だった。

 数台のマシンがクラッシュし、白煙が上がった。ボリスはすかさずレンズを望遠に変え、事故の場面にライカを向けた。135mmの望遠レンズは、そこにクラッシュしたポルシェのマシンを写し出した。ボリスは呆然とした。ゼッケン47番の銀色の車体がコースアウトしている。自分の目を疑い、ライカのファインダーから目を離して実際にもう一度見てみる。間違い無かった。356は事故に巻き込まれてしまったのだ。がっかりする気持ちを無理矢理押さえて、ボリスはクラッシュした356にライカを向けた。

 47番の356は、結局リタイアとなった。
 あんなに楽しみにしていたのに、ポルシェの走りは数周しか見れなかった。写真もほんの数枚しか撮っていない。それもストレートの写真ばかり。肩を落とすボリス。

 しかし、356はもう一台残っていた。ゼッケン46番のマシンだ。
ボリスは気を取り直し、もう一台の356を追い掛けた。46番は調子よく周回を重ねた。ボリスは早足でコースを駆け巡り、一つでも多くのコーナーで356の走りをライカに収めようとした。いつの間にか、汗だくになっていた。

 46番の356の走りはしなやかだった。ギリギリまでブレーキングを遅らせてコーナーに飛び込んで来る。マシンは少し外側にロールし、タイヤが軋む。しかし、ピタリと決めたラインをトレースしてコーナーリングして行く。立ち上がりも軽快だ。

 ボリスはライカのファインダーを覗きながら笑っていた。大排気量のマシンが次々と356をパスして行くが、356は可愛い顔してがんばって走っている。

 やがてプラクティスは終了した。
 ボリスは満足していた。一台目の356がクラッシュした時は目の前が真っ暗になったが、残る一台は最高に調子が良さそうだ。(これならば結構良い所まで行くかも知れないぞ!)ボリスは期待に胸をふくらませた。

 プレスルームに戻り、公式のプラクティス結果表や各チームの発表する資料を受け取り、タイプライターに向かう。今日の予選の一番の話題は、ポルシェ356の一台がクラッシュに巻き込まれてリタイアした事と、残る一台が素晴らしい走りを見せた事だった。それだけではあまりに自分の趣味に走り過ぎているので、トップグループの順位や状況も資料を元にまとめた。6本撮影したフィルムもすぐに現像の手配をする。同じ通信社から来ているカメラマンもいるので、自分で撮影した写真はあくまで参考用だ。記事をまとめ終わる頃には、すっかり日も暮れていた。空腹を感じたボリスは、ホテルに帰る途中で小さな街の定食屋に入った。今日のメニューを選択し、スパークリング・ワインと共に胃に流し込んだ。子牛の肉が、胃の中で雄叫びを揚げる。うまいソースに感激しつつ、千鳥足でホテルに戻ると、酔いと疲れで服を着たままベッドに倒れ込んでしまった。

 6月23日、決勝の朝は曇り空だった。
 低くたれ込めた雲の流れが早い。今にも雨が振り出しそうな天気の中、ボリスはサーキットに向かった。サーキット周辺はそんな天気にもかかわらず、大混雑していた。やはり歴史ある伝統のレースだ。多くの車好きが、朝早くからサーキットに詰め掛けていた。途中、メインスタンド裏のテントで雨合羽を仕入れ、プレスセンターに顔を出す。プレスリリースに一通り目を通し、早速ピットに向かった。ピットはすでに戦場と化していた。

 各チームとも、メカニック達が慌ただしく駆け回り、多くの観客がそれらを取り巻いていた。決勝日と言う事もあり、報道陣の数も格段に増えている。トップレーサーの回りには着飾った女達が寄り添い、華やかな舞台も整っていた。

 その年(1951年)のル・マンは、第19回目を数えていた。第一次世界大戦終結後の1923年に第一回目が開催されてから、毎年6月の半ばから終わり頃になると、全世界から車好き連中がこのフランスの片田舎ル・マンに集まって来ていた。1936年はストライキの為中止となり、1940年から48年までの9年間は、第二次世界大戦の為行われていないが、1949年からまた復活していた。レースが行われるサルテサーキットは、フランス往年の雄、ブガティの名が冠されたブガティサーキットの一部と公道を使用した1周13.492kmのコースで、戦時中はドイツ軍に接収され飛行場として使われていた。ル・マン24時間耐久レースは、24時間の間に約3500km程走破する過酷なレースだった。人気も高く、各自動車メーカーもル・マンで勝つ事を最重要視しており、まさに世界最高峰のレースの一つと言えた。

 ボリスは、昨日ポルシェばかり見ていたので今日はトップチームの取材もしなくてはならなかった。ジャガー、フェラーリ、タルボ、アストンマーチン….どこが勝つかは解らない。前評判の高いチームを順番に取材する。ピットを見て歩きながら、各車の特徴を探し、メモを取る。ポルシェはゼッケン46番の一台だけだ。

 ピットを端から端まで一通り見終わったころ、低くたれ込めた空から雨粒が落ち始めた。各ピットが大混乱に陥る。プラグやタイヤの交換、雨対策、レーサーのレインウェアの準備など、ピットは一時、騒然となった。ボリスもライカを濡らさぬ様、今朝買った合羽を着込んだ。時間は慌ただしく過ぎ去り、いよいよ決勝のスタート時間が迫ってきた。

 雨の準備を終えたマシンが、次々とスタートラインに並び始めた。総数60台もの時代の最先端を行くレーシングマシンが居並ぶ様は圧巻だ。下はパンハードの611ccから上はカニンガムの5426ccまで、全てが整列したところでサーキットは静寂に包まれた。

 午後4時。世界一長く過酷なサバイバルゲームの始まりだ。
 サーキットにいる全ての人々の目が、スタートフラッグを見つめる。
 次の瞬間、これから24時間にも及ぶレースの火ぶたが切って落とされた。
 メインスタンドが、マシンの怒号に包まれる。ピカピカに磨き上げられたレーシングマシンが、弾かれたように1コーナーへと消えて行く。ボリスは必死にライカのシャッターを切り続けていた。走り出す46番のポルシェの姿も捕らえた。
(「がんばれ!356 !」)ボリスはライカのファインダー越しに心の中で叫んでいた。

 全てのマシンが1コーナーに消えると、メインスタンドが静けさを取り戻した。
 遠く、ユノディエール・ストレートの方から排気音がこだまする。

 レースは、雨中で大混乱となった。10倍も排気量の違う車が混走しているのだ。最高速の差も数十キロに及ぶ。前の車の跳ね上げる雨の飛沫で前も見えないドライバー達は、皆決死のドライビングだ。パワーは有るが、ブレーキ性能やシャーシーの性能が追い付いていない車も多く、コーナーからスピンアウトする車も後を経たない。

 そんな中、ポルシェは順調に周回を重ねていた。
 トップグループからは遅れをとっていたが、同クラスの中ではいい位置に付けていた。
 ボリスはメインストレートである程度写真を撮ると、場所を移動しながらレースの動きを見つめていた。耐久レースは先が長い。あせってフィルムを使い切ってしまっては、後半の肝心な所でフィルムが足りなくなる恐れも有る。取りあえず、遅い昼飯でも食べて英気を養っておくか…と考え、コース脇に有るこじんまりしたレストランに腰を落ち着けた。

 レストランの中は、レースファンでごった返していた。外が雨降りと言う事も有るのだろうが、古くからのル・マンファンと思しきフランス人の老紳士達が、今年は何が速そうだだのレースの行方を肴に、ル・マン談義に花を咲かせていた。
 個人客のボリスは、そんなフランス人老紳士たちと相席となった。

 紳士達は、一瞬話を止めて席に付くボリスを見遣った。
 ボリスは彼等の視線を感じつつも、席に腰掛け、ライカをテーブルに置いた。
 紳士達の一人が、ボリスのライカを見てボリスにウインクをしてよこした。ボリスは軽く会釈を返した。紳士達は何やらフランス語でボリスに話し掛けて来たが、フランス語の解らないボリスは、作り笑いを返す事しか出来なかった。しかし、彼等がライカを誉めている事だけは理解出来た。話が途切れたところで、ボリスはランチのメニューをオーダーした。カツレツと野菜炒めだ。オーダーが済むと、ボリスはテーブルに置いてあったナプキンで濡れたライカを拭った。ていねいにライカを拭いていると、ウインクをよこした男が英語でボリスに話し掛けて来た。
「良いカメラだな、お兄さん。ヒトラーのドイツはひどかったが、カメラと車はドイツ製は良く出来ている。大きな声では言えんがね…」
 ボリスは笑顔を老人に向けた。「私もそう思いますよ。シンプルで、かっちりしている。几帳面な国民なんでしょう。」
 老人はボリスの目をまっすぐに見て聞いた。「お兄さんはどちらからいらしたのかな?」
「ソビエト連邦です。通信社の記者をしてまして、今回はル・マンの取材に来ました。」
「ほー記者さんか、大したもんだ。ソビエト連邦の記者さんは、今年のル・マンの行方はどう見ておるのかね?」
 ボリスは少し首をひねってからうなづきつつこう答えた。「今年の優勝は、私にはどこだか解りません。ただ私は、ドイツの小さなスポーツカーに注目してます。1100ccクラスにエントリーしている”ポルシェ”という車です。あれは良いとこまで行くと思いますよ。」
「ポルシェか…確かに、彼は天才的な技術者だ。我がフランスのルノー4CVの設計にもかかわっておったそうじゃ。」老人はうんうんと一人うなづき、仲間達との会話に戻って行った。747ccのルノー4CVは、今回のル・マンに6台が出走している。ボリスは改めて、ポルシェの凄さを感じていた。

 ボリスは、カツレツとフランスパンを早々に平らげ、食後のエスプレッソも一気に飲み干してサーキットへと戻った。

 先頭を行くのは、イギリスからエントリーしていたジャガーだった。昨年からこのル・マンに参加を始めたXK―120は、より戦闘力を上げて来ており快調に飛ばしていた。

 それを昨年の覇者、タルボラーゴが追い、その後ろにはアストンマーチンが続いていた。
ボリスは、サーキットの回りを時間をかけてぐるりと一周回りながら、写真を撮って歩いた。日が暮れると写真は撮れないので、レースの進行状況だけ気を付けて見ていた。

しかし、24時間は長いな〜とボリスは思った。レーシングスピードで走り続けているドライバーは驚異的だが、見る方もメカニックもコースマーシャルも、レースに関わる全ての人が楽では無い。正に過酷なサバイバルゲームだった。耐久レースの行われているサルテサーキットは1周13.5キロも有り、運悪くピット前を通り過ぎてしまった直後にマシントラブルが発生したとしたら、次のピットにたどり着ける確率は極端に低くなる。

 今回のレースでも、すでに多くの脱落者が出ていた。事故に泣いたもの、ブレーキトラブル、クラッチが焼けてしまったやつ、ディストリビューターやラジエターの破損、ピストンやガスケットが壊れてしまった車、火災によって炎上した車までいた。しかし、ボリスが気にかけていた銀色のゼッケン46番は懸命に走り続けていた。

 ゴールまであと2時間に迫った頃、V8エンジンの低い排気音を轟かせて走っていたキャデラックが、トランスミッションの故障でコース脇に止まった。それまで、22時間、懸命に見守り続けて来たピットクルーは、がっくりと肩を落とした。
 エンジントラブルで長い事ピットに止まっていた車が、メカニックの必死の修理で蘇り、また走りはじめる。ル・マンでは、あちらこちらで沢山のドラマが展開されていた。

 ピットクルーも交代を待つコー・ドライバーも、皆疲れ果てていた。
 最後の一時間、23時間前にピカピカでスタートして行ったマシン達は、どれも泥にまみれ、傷付き、満身創痍となって気力だけで走り続けていた。ここまでくると、みな祈るような気持ちで見守っている。ポルシェのピットにいたミューラーは、ただただ356があと一時間、壊れずに走り切ってくれる事を願っていた。ボリスは、その男がライカの元の持ち主であるとも知らず、レースの一風景としてミューラーの姿をライカの望遠レンズで捉えていた。

 そして遂に、満員のメインスタンドの観客、トリビューン達が総立ちになった。
1951年のル・マンで最初にチェッカーフラッグを駆け抜けたのは、ジャガーXK―120Cだった。ジャガーは、サルテサーキットを24時間の内に267ラップし、3611.193キロを走り切った。24時間で3500KMを走破したのは、ル・マン史上初の快挙だった。
 ファステストラップもジャガーが取ったが、それは優勝車ではなくスターリング・モスがドライブしたゼッケン43番のマシンで、オイルプレッシャーのトラブルで92周目にリタイアしていた。

 第二位は9周遅れの258ラップでタルボラーゴが入った。
ゼッケン46番のポルシェ356は、1100ccクラストップの総合20位で見事完走を果たした。
 ボリスはゴールラインを駆け抜けるポルシェの勇姿をライカに収めながら、込み上げて来る涙を押さえられずにいた。言い知れぬ感動が、全観客、全ドライバー、そしてル・マンに関わった全ての人たちを包み込んでいた。

 優勝したジャガーがトリビューンの前に戻って来た。スタンドから割れんばかりの拍手と歓声がサーキットを包む。ドライバーのピーター・ウォーカーが観客に応えて握りこぶしを天に向かって突き上げた。歓声が一段と大きく響いた。
「(これが、ル・マンか!)」ボリスは震える心の中で叫んでいた。

 24時間が長く苦しければ苦しい程、最後まで走り切ったものたちには大きな感動が押し寄せる。なんとも言えない達成感。ミューラーは仲間たちとその感動を味わっていた。

 ポルシェはル・マン初出場でクラス優勝の快挙を成し遂げたのだ。
しかし1951年のル・マンは、ポルシェにとってはそこから始まる長い闘いの歴史の第一歩でしか無かった。
 ボリスは感動を胸に、ル・マンを後にした。

 ポルシェはその後、1100ccエンジンに加え、1500cc、60馬力のより強力なエンジンを開発し、8月のリエージュ・ローマ・リエージュ・ラリーに投入する。

 1951年のF1グランプリは、相変わらずアルファロメオの天下だった。ティーポ158は改良が加えられ、159へと発展を遂げ、最高出力が425psと大幅にパワーアップされていた。

 初戦のスイスGPはファンジオが優勝し、第二戦のインディを飛ばして第三戦ベルギーをG.ファリーナ、第四戦のフランスをI.ファジオーリとアルファ勢の連勝が続いた。そして迎えた第五戦、7月14日に行われたイギリスGP。場所はシルバーストーンサーキット。
 アルファロメオは昨年の覇者ジュゼッペ・ファリーナを筆頭にファンジオ、フェリーチェ・ボネット、コンサルヴォ・サネージの4台体勢、対するフェラーリはアルベルト・アスカーリ、ルイージ・ビロレッジ、フロイラン・ゴンザレスの3台体勢で臨んだ。20台のスターティンググリッドの前二列7台をアルファとフェラーリの真紅のマシンが埋めた。
 レースはフェラーリのゴンザレスとアルファのファンジオの一騎討ちとなった。
 二人ともアルゼンチンのドライバーで、プライベートではとても仲が良かった。しかし、この時ばかりは両者譲る訳には行かなかった。90周で行われたこのレース、勝負を分けたのはピットストップだった。ファンジオの駆るアルファはスーパーチャージャー付きのDOHC直8、1500ccエンジン,425psのティーポ159。対するゴンザレス駆るフェラーリ375F1はNAのSOHC 60度v型12気筒の4500ccエンジンで330ps。馬力ではアルファが絶対優位に見えたが、パワーを上げた分燃費が悪くなり、ピットストップの回数が増えてしまったのだ。終盤のファンジオの怒濤の追い上げも空しく、フェラーリのゴンザレスがチェッカーを先にくぐり抜けた。1950年にF1世界選手権が始まって以来全勝を続けてきたアルファロメオに、初めて土が着いた。レース後、エンツォ・フェラーリは記者のインタビューに答えてこう語った。「私は母親を殺してしまった。」と…..、若かリし日々に、アルファロメオのドライバーとして活躍し、その後、チーム監督としてアルファを率いたエンツォだったが、1938年の喧嘩別れ以後、打倒アルファロメオの一念で戦って来ていた。しかし、夢にまで見たアルファロメオに対する勝利を現実のものとした時、アルファに対して母の愛情にも似た感慨を受けたのかも知れない。ここまで強く成れたのは、アルファロメオという目標があったればこそだったのだ。新興チーム、フェラーリのF1グランプリにおける記念すべき初勝利は、嬉しさと悲しさが同居する、切ない勝利となった。
 続く第六戦ドイツGP、第七戦イタリアGPとフェラーリを駆るA.アスカーリが勝利を収め、最終第八戦、スペインGPでやっとアルファのJ.M.ファンジオが2勝目を挙げ、初めてのF1世界チャンピオンに輝いた。
 この年の年末、アルファロメオはF1グランプリからの撤退を発表。代わってフェラーリが大活躍を開始する。

 翌年1952年、76歳と高齢だったフェルディナンド・ポルシェ博士が、脳溢血の為他界した。年が開けて間も無くの1月30日のことだった。ポルシェは、第一次世界大戦、第二次世界大戦と激動のヨーロッパを生き抜いた。その生涯には、一人の天才技術者としては有り余る程の大きな足跡を残している。そして彼の精神は、息子フェリーや娘婿のピエヒ博士、孫のブッツィーと、ポルシェ社の仲間達へと脈々と引き継がれて行くのである。

 

第九話につづく